声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

JUNE.6,2019

Architecture will be straightforward, useful, precise, cheap, free, jovial, poetic, and cosmopolitan.

Lacaton and Vassal, 2000

 設計をしていてなにか判断にこまったとき、この言葉を思いだす。ぼくにとってはひとつの指標みたいなものだ。自分が設計する建物は、まっすぐ素直で、便利で、明確で、安く、自由で、陽気で、詩的で、国境を超え、手頃で、楽観的なものであってほしいと思う。どれひとつとして欠いてはいけないものだと感じる。
 ぼくが本当に尊敬できる建物は、つねに何かを鼓舞している。個人の生(活)なのか、向こう三軒両隣の風景なのか、あるいはもっとおおきな地域なのか、地球なのか、範囲のスケールはあるけれど、とにかく他者を励ますような、喜びや楽しみを約束し、ある独特な感覚や快適さを生み出すような、そんな寛大で懐の深いじょうぶな覆いだ。

 建物に限らず、ぼくが好きだな、大切だな、と思うひとはやはり、誰かを励ましている。それは「頑張れ!」と他人に叫ぶようなことではもちろんなく(そういう暑苦しさはむしろ苦手なのだが)、なんというか、ある「表現」が他者を鼓舞するということ、に対する揺るぎない信みたいなものをもっていて、それをまっすぐ実行している人だ。むかし友人が、「ひとりで楽しそうにしてるひとが好き」といっていて深く共感したのだけど、まさにそういうことかもしれない。建物にしろ、ひとにしろ、作品にしろ、そういう存在に出会えるということはとても幸運な、奇跡に近いことだと思える。

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JUNE.3,2019_なぜフィクションか?①

 ジャン=マリー・シェフェールの『なぜフィクションか?』(慶應義塾大学出版会, 2019 / Jean-Marie Schaeffer: Pourquoi la fiction ?, Editions du Seuil, 1999)がすごくおもしろかった。ぼくの最近の興味どストライクな内容。さらにnoteで立石遼太郎さんの建築とフィクションについての連載もはじまるので、その予習もかねてタイミング的にグッドな本かもしれない。立石さんの連載たのしみ。

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確かにデジタル技術は、「バーチャルリアリティ」を生んだ。だが世界の「バーチャル化」と世界のフィクション化は同じものではない。バーチャルが固有の意味で対立するのはアクチュアルであって、現実ではない。「現実」と対立していると言えるのは、ただフィクションのみである(…)デジタルフィクションがフィクションの(「現実」に対する)論理的ステイタスを変化させるのではなく、フィクションを製造し、また消費するための新たな手段をわれわれに提供するにとどまるということである(これでもたいしたことにはちがいないが)。 

ジャン=マリー・シェフェール: なぜフィクションか?, 久保昭博訳, 慶應義塾大学出版会, pp.10-11, 2019 

「バーチャル化」は世界のデジタル化がもたらしものではなく、「表象」という生物学的なシステムがそもそも備えていたもので、加えてフィクションは表象の特殊な様態であり、同時にバーチャルの特殊な形式であると、シェフェールは述べる。デジタルゲームもネット環境も、別に「フィクション」そのものを変質させたわけではなく、変化したのは技術的支持体(クラウス)の構成なんだと。ちなみにこの本が書かれたのは1999年で、ちょうどネットやデジタルフィクションが隆盛をはじめた時期であり、それらに対する危惧というものが広まっていた時期でもあるのだけど、本書は世界がほぼデジタル化してしまった今読んでも十分に批評性をもっている、ということはまず書いておきたい。

私は「あたかも〜のようにする」ーー遊戯的偽装ーーと、子どもたちのごっこ遊びや夢想にその起源が見られる創造的シミュレーションの根本的なメカニズムから出発するのでなければ、フィクションとは何かを理解できないと確信している。(…)人間の生における(遊戯的かつ本気の)模倣の重要性こそ、表象芸術が、なぜあれほどまでにミメーシス効果を亢進させる傾向を帯びるのかを理解する助けとなるからである。

Ibid., pp.11-13

デジタルフィクションとごっこ遊びを切り離すことなく「フィクション」を理解しよう、というのがシェフェールのスタンスであり、そこではミメーシス=模倣のメカニズムが重要な観点となる、と。ゆえに“日常的”なミメーシス行為とフィクションのあいだの関係を再認識すること、が本書の目的として位置づけられている。

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 まずもって問題となるのは、物語に没入するときのようにミメーシス的に対象に自らの身体を同化させることは魅惑的だけれども、それは同時に「理性のコントロール」という審判を麻痺させるのではないか、といったような模倣に対する警戒心である。たとえば『国家』のなかでプラトンは「ミメーシス」概念への批判的な議論を展開している。ミメーシスには「感染」という危険性がつきまとうため、模倣する対象を誤ることは大変危険であるという警告である。

誤った対象の選択が危険なのは、現実の行動がそこで模倣される非難すべき行動に感染しかねないからである。プラトンは、批判すべき行動の模倣の戯れに耽る人たちについて語った箇所で、次のように記している。こうした模倣を追放すべきなのは、「この模倣の感染が、彼らの存在の現実にまで及ぶことを避ける」ためである。「それとも君は、気づいたことがないかねーー模倣というものは、若いときからあまりいつまでもつづけていると、身体や声の面でも、精神的な面でも、その人の習慣と本性の中にすっかり定着してしまうものだということに?

Ibid., p.32

なるほど、最初はそんなつもりがなくても模倣対象の考え方や、もっといえば行動までが感染してしまうという考えはよくわかる。「xをする"ふり”をして遊ぶものは、実際にxをおこなう性向をつよめる」というとスタンフォード監獄実験http://urx2.nu/Ji4Wなんかを思い浮かべるけれど、もっと身近な経験のなかでも「模倣の感染」を味わったことがある人は多いと思うし、それゆえこのようなプラトンの懸念は正当なものだと多くの人は思うのではないか。こうしたミメーシスの感染効果、訓練効果は、実際には模倣を実践するものだけに関わる事項ではなく、受け手にもその影響は及ぼされうるものであり、プラトンが真に危惧しているのはたとえば役者が公衆を操作する能力を有するという可能性であるように思われる。ただ、ここでは模倣そのものが原理的に問題になっているのはなく「ある種の対象を選んではいけない」ということが注意されているのであり、逆にいえば、良い模倣のモデルを選択し褒められる行動を装えば、いずれその「ウソ」は「ホントウ」に移行する、という可能性は認められているわけだ(だからこそ、そこでは前提とすべき道徳的な倫理観なるものが措定されるのだが)

 しかし筆者は、プラトンの議論において上記の相異なるミメーシスの効果が一緒くたにされてしまっていることを問題視する。

ところで、(遊戯者、役者、公衆のいずれの場合でも)フィクションが「現実生活」に影響しうるという問いを立てるならば、二つの非常に異なる問題を区別しなければならないだろう。それが没入(フィクションと現実の境界の浸透性)の問題と、訓練効果(フィクションによる現実のモデル化)の問題である。シミュラークルへの完全な没入、すなわちフィクションを現実と見なすにいたるような没入がありうるということと、フィクション世界を現実へと移し替えること、すなわちわれわれがフィクションの登場人物たちの行動を写し取るような行動をするにいたる移し替えがありうるということは、まったく別のことである。私はあるフィクションを前にして「指示的幻想」に騙されることもあろうが、だからといってそのフィクションの行動を後で真似するとは限らない。逆に、私はフィクションの行動やフィクションの世界を、それがフィクションであるということを十分に承知しながらモデルとすることもできる。

Ibid., p.36

 没入と訓練効果。両者をきちんと区別するということは非常に重要な観点である。たとえばホラーゲームのなかで突如出現する殺人鬼におもわず目をそらしてしまう(没入によるフィクションと現実の同一化)ということがあるが、これは認知的関心(の誤謬)に関わる問題。他方、その殺人鬼をモデルにした実際の殺人事件がおきてしまう、ということがあったとして(想像するのもいやだけど)、それはフィクションに対する現実の“行動の調整”に関わる問題だ。この両者を混同してしまうと、過激なフィクション(たとえばグランド・セフト・オートのようなゲームとかね)はとにかく規制すべきだ、みたいな短絡的な結論に陥ってしまうことになる(こうしたフィクションの規制にかかわるよくある議論は、古代ギリシャから何度も何度も繰り返されてきたものなのだ)

ミメーシス活動の特徴を示し、それゆえこの活動に固有の問題を正しく提示すると考えられるのは、唯一没入による同一化のみである。

Ibid., p.36

後者の「行動の調整(対象のモデル化とその模倣)」はフィクション固有の問題というわけではない(しばしばメディアから攻撃されるのは創作やフィクションだけど)。親の背を見て子は育つというけれど、たとえば子供にとっては現実の両親を模倣することによる影響(訓練効果)のほうが、フィクションの登場人物から受けるそれよりもよほど強力なのではないか。しかし、没入の問題(フィクションと現実の境界の浸透)はあくまでもフィクション固有の問題であるとシェフェールは判断している。

 さらにプラトンは『国家』において、「模倣する対象を誤るな」という警告をこえて、ミメーシスそれ自体を否定する論を展開する。要約すると、行動や感情の感染というのはプラトンにとっては弁証法的(問答法)過程を経てなされる合理的な説得の対極に位置するものであり、道徳の問題(正しい模倣対象を選択しよう)というよりは、認識上の欠陥という観点から否定されなければならないのだ、というもの。ミメーシスにおける“認識上の欠陥”なるものを例示すると、たとえばある職人が師匠を見よう見まねして盗んだ(ミメーシスによって獲得した)技術は往々にして言語的に、模倣以外の仕方で他者に伝えることが難しいでしょう、それは認識上の欠陥じゃないか、ということになるのかなと思う。とはいえ、プラトンのミメーシス的行為に対するこの伝染病学的な構想(模倣が非言語的な仕方で何かをコミュニケートしているんだという観点)はかなり重要で鋭いものである。プラトンはそれが理性的な説得ではないということで断罪したけれど、逆説的に彼はミメーシスがもつが独特な能力を認めていたことになるだろう。プラトンが模倣の感染作用を強く危惧していたことも、この能力のある種の可能性を十分に評価していたからだといえなくもない。

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 プラトンとは対象的に、アリストテレスは遊戯的なミメーシスを肯定的に捉え、そのなかに他のなにものにも還元できない世界との関係をみた。

おおまかに言うと、これは公然となされる遊戯的ミメーシスの活動が、現実的葛藤の儀礼化として生じると考える。カタルシスの理論に従い、現実の葛藤を純粋に表象的なレベルに移し替え、そのレベルでそれを解消させることに演劇的ミメーシスの機能があると認めるならば、これは結局のところアリストテレス的モデルと言える。(…)(ミメーシス的実践は)ある特定の実際的必要、つまり葛藤に対し遊戯的に距離をとることを通じて、人間関係を穏便にするという必要に呼応するものとなる。

Ibid., pp.49-50

 カタルシス効果とはつまり、対処が難しい衝動や欲求、葛藤を非言語的に表現することを通じ、それを意識化・発散することである。アリストテレスは演劇的ミメーシスを、こうした人間のもつ「能力」のひとつして、世界との関係のむすびかたのひとつのカテゴリーとして評価するのだ。しかし、

アリストテレスにとって、フィクションを特徴づけるのは、必然的であるにせよ、本当らしいものであるにせよ、あるいは可能なものであるにせよ、事実を表象する語りに特有の表象構造である。(…)アリストテレスは、フィクション世界と歴史的現実の世界とは相互に感染しあうことがないと完全に信じているのである。それゆえ彼のミメーシス概念は、まやかしとしての模倣ではなく、モデル化としての模倣になる。実際詩人は、その物語を可能なこと、必然的なこと、あるいは真実らしさという路線に沿って作ることで、ある認識モデルを作り出すのだが、その際、状況によってさまざまに変化する経験を具体的なものとしうる深層の行為構造を現実から抽出するがゆえに、作られたモデルの効用は、模倣される現実を超えたところに位置するのである。現実の出来事をフィクションにする可能性を認めているアリストテレスが、一方ではその反対の可能性を一度も考慮しなかったことは突筆すべきだ。つまり、隠れた行為構造を浮かび上がらせるモデル化によって、現実界を変貌させるのではなく、逆に自分がフィクションとして創りあげたものを、現実界の舞台に下ろすという詩人の試みについて、アリストテレスは一言も述べていないのである。

Ibid., pp.51-52

ゆえに、

なんらかの仕方でプラトンの観点(偽装としての模倣)をアリストテレス的モデル(認識上のモデルとしての模倣)のなかに統合できなければならないということになる。いかなる意味でフィクションが人類の文化的獲得物となるかを理解できるのは、唯一この二重の視点からなのである。(…)理解に努めなければならないのは、一方でまやかしとなる装置をさまざまな段階で利用しつつ、それと同時にこの装置の効果、つまりそれによって引き起こされる没入の度合いを制限する限りにおいてのみフィクションはフィクションたりうるということの意味である。そこで重要となるのが、あらゆる種類の「遮断」である。これは没入が、行為の所産をフィクションとして包括的に設定する語用論的枠組みに感染するまで広がることを防ぐものと見なされている。ロールプレイングゲームにせよ、夢想あるいは芸術的表象にせよ、あらゆるミメーシス活動にはこうした活動にはこうした遮断のメカニズムが見いだされる。プラトンがはっきりと見て取ったように、見せかけの生産として考えられた模倣は、固有の力学をもっている。その力学を決定するのは、唯一模倣と模倣されたものの同形性の程度、それゆえ模倣が可能にする没入の程度のみだ。この同形性がある一定の閾を超えるといかなる意図の下に産出されたものであれ、まやかしがその完全な効果を発揮することなる。こうしてフィクションの特徴となる部分的没入から、まやかしを特徴づける全的没入へと移行する。

Ibid., p.53

 さいきん個人的に「リアルとフィクションの同時性」ということを考えていたから、このあたりの記述はものすごく重要だと思った。あらゆるフィクションが、没入を観者に誘発させる構造(いわば疑似餌=ルアー)と、それをキャンセルする構造(これはフィクションですよという宣言)、そのどちらもを常に備えているということ。これによって人は、それが現実ではないということを理解しながらもしっかりと没入できるような、その両者をいったりきたりできるような、そういう体勢でフィクションと向き合うことができる。模倣対象との同形性(似ている具合)に応じた没入の誘発とキャンセルの度合いはものによって違うけれど、すくなくともこの両者を同時に成立させるための無数の形式があらゆるジャンルで実践されているのではないか、とぼくは思う。ぼくがいますごく興味があるのはこの、現実とフィクションを(仮設的であれ)同時成立させるための技術、その形式の類型だ。 

 これで第1章おわり(全4章)。シェフェールの文章がいささか晦渋なのでこの本の内容をまとめるのけっこうつらいのだけど(せっかくめちゃくちゃおもしろいのに…)、つづきはまた近いうちにやります。

MAY.30,2019

 ひさしぶりにロボットアニメをみたいと思い探していたら、2017の「ナイツ&マジック」を見逃していたことを思い出したのでイッキ見してしまった。スパロボ好きにはたまらない展開で、作画もすごくよくて、よかった。いわゆる「異世界転生モノ」のフォーマットに、ゆうしょただしい「ロボットアニメ」のフォーマットが重なっていく。むしろ「異世界転生モノ」というフォーマットを借りる必要などあったのかと考えてしまうのだが、これは現状のほとんどの異世界転生系アニメ(というかなろう系ファンタジー全般)に指摘できることかもしれない。「異世界転生」という形式(異世界転生じたいは100年以上まえに書かれたマーク・トウェインの『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(1889)ですでに成立しているフォームなので、ものすごくありきたりなテンプレートではあるわけだが)をもってしないとファンタジーを書くことができない、という思いが作者にあるのだろうか。それとも「異世界転生」じたいになにか現代の若者を満たしてくれるナニカがあるのだろうか。ファンタジー世界の住人に「現代の私」というペルソナを背負わせることを欲望する身体について、誰かしっかりと論じてくれないだろうか、と思う。多くの若者が「とりあえず一度死ぬ」ことを欲望し、それがファンタジーアニメの導入のスタンダードになっているというのは異常なことだと、あらためてそう感じたのだった。ともかく現状ではこの形式が氾濫しすぎていて、どのファンタジー系アニメも「異世界転生」という導入に別の形式を重ね合わせてオリジナリティを出していく感じで、ほとんど大喜利みたいになっているのは確かである。「ナイツ&マジック」は普通にすごくおもしろかったので、ぜひ続編も制作していただきたいと思う。

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MAY.27,2019_新たな約束事

 門林さんのテキスト「メディウムを混ぜかえす」(『イメージ学の現在』第10章)がたいへん勉強になった。ロザリンド・クラウスの「ポストメディウム的状況 / 条件」をめぐる議論を、クラウスが刺激を受けていたスタンリー・カヴェルの映画理論にも目を配りながら詳しく検討したもの。

彼女にとって、(芸術表現が用いる)メディウムとは、技術的支持体(technical support)のことであるが、それは必ずしも(例えば絵画におけるキャンバスや筆、顔料のような)物質的支持体(material support)とは一致しない。したがって、彼女にとって、芸術表現においてメディウム固有性を追求することは(単純化されたグリーンバーグ主義がしばしばそのように理解されるように)一定のジャンルの物質的条件へと芸術表現を還元することではない。(…)彼女にとって、メディウム固有性の追求とは、一定の技術的支持体が可能にする表現を、一定の約束事(convention)ないし「自動性(automation)(スタンリー・カヴェル)へと練りあげることである。

門林岳史: メディウムを混ぜかえす――映画理論から見たロザリンド・クラウスの「ポストメディウム」概念 (坂本泰宏, 田中純, 竹峰義和: イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ, 東京大学出版会, p.254, 2019)

クラウスの提出したメディウム固有性についての観点に立ったとき、現代における映画(およびヴィデオアート全般)のポストメディウム的状況についての議論は下記のような仕方でまとめることができる。

映画のメディウム固有性は、デジタル時代に初めて危機にさらされたとしてよいのだろうか。ここで二つの立場を対比させてみたい。

①映画は今日、ポストメディウム的状況にある。なぜなら、デジタル時代において、映画のメディウム的条件は、その物質的支持体であるセルロイド・フィルムに還元できないからである。今日、必要とされているのは、映画の存在論を、その単一の物質的なメディウムに還元することなく再構築することである。

②映画はその誕生の瞬間からつねにすでにポストメディウム的状況にあった。なぜなら、映画のメディウム固有性は、グリーンバーグにとっての絵画のメディウム固有性とは異なり、映画に固有の単一の物質的支持体に存するのではないからだ。むしろ、映画のメディウム固有性は、一連の技術的支持体(フィルム・カメラ・映写機・スクリーン・映画館など)と、映画的経験を構造化する一連の約束事のうちに存している。

 この双方が、慎重な検討に値する重要な問題設定であり、これまでのところ映画理論は、主に①の立場から出発してクラウスのポストメディウム論に関心を寄せてきた。しかしながら、私の考えでは、映画理論がクラウスのポストメディウム理論から汲みとるべき教訓の核心は、むしろ②で定式化した立場のほうにある。

Ibid., pp.258-259

  ぼくは建築を専門として勉強している立場にあるので、無意識のうちに建築的な実践への転用可能性を頭のどこかに置きながら(忘れがちではあるのだが)建築以外の分野をみてしまっている、と思う(ほんとうはこれ、ちょっと嫌なのだけど)。それで、写真と映画に関するテキストというのはなぜか「建築にも活かせそう」センサーに引っかかりやすく、これってなんでだろうってずっと考えていたのだけど、上記の記述でその謎がすこし解けたような気がする。

 門林さんが書いているように、やはり上記の②の着目点がとってもとってもおもしろいと思った。メディウム(ある完結性をもった「形式」あるいは「ジャンル」といってもいいだろうけど)のもつ固有性は、いくつかの装置の集合的な条件、そしてそのメディウムの経験する際の「約束事」(convention)によって規定されるのではないか、と。つまりメディウム固有性には「複雑さ」というパラメータが存在する。建築というジャンルの固有性を説明する際にどういった条件が適切なのか、という問いに対してぼくはまだ明確な答えを持ってはいないけれど、すくなくとも映画や写真に興味を惹かれるのは、メディウム固有性に規定する際に複数の装置が介在せざるを得ないというその質に、どこか親近感を覚えているからかもしれない。

すなわちクラウスは、一定のジャンルとそれが用いる技術的支持体が可能にする「約束事」まで含み込むようなかたちで、メディウム固有性概念を再定義した。そのようなメディウム固有性の理解において、モダニズムの芸術家の使命とは、一定のジャンルにおける約束事に基づいてそのジャンルが可能にする表現の「新しい一事例」を創り出すことではなく、そのジャンル内部に「新しいメディウム」を創出ないし発明することである。それは同時に、新たな約束事を、すなわち「新たな自動性」を発明することを意味している。

Ibid., p.263

 ハイデガーを例に出すまでもなく、うまく機能しているときの「道具」はつねに控えめで、それはしばしば無意識に使用される。映画を観賞するとき、その技術的支持体(フィルム・カメラ・映写機・スクリーン・映画館など)が感知されることは少ない。映画を成立させている道具のネットワークはぼくらが物語に没入しているときほど意識から退隠しがちだ。が、ある種の映画は技術的支持体のネットワークを部分的に切断することで、映画装置それ自体を物語のなかで露出させる。映像を撮影しているカメラの物質性とその位置、スクリーンを眺めている自分自身の身体、映画館という空間など、映画というメディウムの技術的支持体を構成する複数の映画装置のその“各々”が物語のなかで露呈しうるわけだが、それら自身もまたひとつのメディウムであることを忘れてはならない。だから、そこでは映画以外の別のメディウムが、別のメディウム・スペシフィックが喚び出されているのだと思う。

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MAY.24,2019

こっそり美術出版社の「芸術評論募集」という論文のコンペに応募していたのだけど、めでたく落選となった。「アナーキズムの条件」というタイトルの、写真家の中平卓馬をあつかったテキストで、要旨は以下の通り。

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1974年、中平卓馬は自身が表紙を担当していた『近代建築』誌上でいささか挑発的なテキストを寄稿する。64年の東京五輪から70年の大阪万博にむけて加速していた高度経済成長が公害問題やオイル・ショックにより一時頓挫し、70年安保改定を前にした全共闘運動がすでに息をひそめていた時期であり、同時に、大規模なスクラップ・アンド・ビルドによる都市空間の変貌の只中にあった時期のことである。中平が投げかけたのは、世界の普遍性・不動性に対する建築家のオプティミスティックな態度への批判であり、「アナーキストは建築家になり得るか?」という疑義であった。

建築的な実践が「生の解放」のためになすべき政治的闘争と、中平の写真実践が重なる地平を、見つけ出すことはできるだろうか。本稿が企図するのは、私たちの生を枠付けている制度への違反・冒険・逸脱の形式を中平自身の言説及び制作物から取り出すことで、「アナーキスト的建築家」という中平が提示した建築家像をより明確にすることである。

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ようは、ほとんど黙殺されてしまった写真家から建築家への批判に対して、建築家の立場からきちんと正面から向き合って返答しよう、というテキストです。中平を扱っているとはいえかなりニッチなテーマだし新規性のあるテーマでもないから、はなから勝算のうすいテキストではあったのだけど、ぼくとしてはこのマイナーさと新しくなさ(半世紀近く前の写真家から建築家への疑義に対して、いま、建築を専門としている自分が返答するということ)こそ意義があると思っていた。

原稿はこのままお蔵入りにするのか、どこかで公開するのか、まだ考え中、、。改めて読んでみると欠陥だらけなので、かなり書き直すことにはなるとおもうけれど。

わざわざこんなことをブログに書いたのは、今月発売の美術手帖6月号で芸術評論入選作の発表があり、それにあわせて審査員(椹木野衣、清水穣、星野太)による選考過程についての座談会があって、そこで惜しかった選外、みたいな感じでぼくが書いた論が紹介されていたからだ(一番はずかしい名前の登場の仕方、、)。批評のコメントは的確で、いつもの悪い癖(脱線を繰り返し盛り込みすぎてしまう)が指摘されておりただだだ反省する。とはいえ、この三者にテキストが読まれ、写真の専門ではない自分が書いた中平論が一定の評価をいただけたというのはありがたいことだと思った。ダメだったけど。

MAY,23.2019

さいきん林をみつけると記録と思って写真を撮る。ただ、こういう場所は意外と見つけられないのだ。森とか公園はそこらじゅうにあるが、ザ・林みたいなところは少ない。とはいえ、たまにだけど、あ、ここは林だ、と思う場所は確かにあって、そういうときに、そもそも「林」ってなんだろうかと思うのだ。森でも公園でもなく林だ、というところ。小さくも大きくもないある特定の規模をそなえ、森に比べたら人工的なんだけど、でも公園ほど人間臭くもないような場所だ。

そういえばぼくが学部生のころなんかは(今もかしら?)「公園のような建築」とか、「森のような建築」みたいな表現で建築のコンセプトを提出する建築家がけっこういた気がするのだけど、「林みたいな建築」という人はいなかった。ぼくだったら林のような建築がいい(小嶋さんは「雑木林」っていっていたから、近い感覚かもしれない)

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MAY.21,2019

銀座で打ち合わせがあって、帰りに日比谷のまんぷく食堂という高架下の定食屋にはいったら、おじいちゃん4人組がお酒を飲みながら談笑していた。みなさんおしゃれで若々しく、文学や映画、政治、哲学のことなどを話していた(ちなみにそのうちお二方がハンチング帽をかぶってらっしゃった。おじいちゃんのハンチング帽はかわいい。ぼくは本当に帽子が似合わない頭のかたちなのでうらやましく思う)。ぼくはレモンサワーとナポリタンを頼んで、こっそりの彼らの話を聞いていた。
なぜ俺たちはこうして出会い、いまこうして酒を飲んでるのか、なんでってそれはヒューマニズムだよヒューマニズム、という会話が最後のほうで聞こえてきた。意味はよくわからなかったが、ともかく、なんだか素敵だなとおもった。

帰りに古本屋で原美樹子さんの『These are Days』とリヒターの『Wald』を読んだ。どちらも素晴らしかったが、べらぼうに高かった。原さんの写真はもっとたくさん見てみたい。そういえばワコウのリヒターの展示、まだみていない。たぶんあと一週間くらいだから、はやめに行かなくては、と今おもった。

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MAY.13,2019

昨日と一昨日は、まいとし福浦漁港(神奈川の真鶴)でやっているゼミ合宿だった。もう6年近く通っているこの漁港にくるのも(うまくいけば)今年で最後か、と思うと感慨深かった。ちなみに真鶴は「みなと食堂」という定食屋が有名なのだけど、いまだに一回もいったことなかったので今年は、と思い後輩たちといった。どの定食も2000〜2500円くらいですごい高いのだけど、量が2人前くらいあるのでシェアして食べている方がおおかった。味は折り紙つきで大変おいしく、お刺身、あら汁、尾頭付きの煮物、焼き魚、フライ、がものすごい量でてくる。がんばって一人で食べたのだけど、ギリギリの量だった。おいしかった(一時間半も待った甲斐があった)

ちなみに行きと帰りは、同期の堀越の「最近車買ったので一緒にいきましょう」という誘いに乗って一緒にいった。2人乗りのマニュアル車、と聞いたので、おおスポーツカーでも買ったのかと思っていたら軽トラだった。しかし軽トラは思いのほか快適で、あとかすかにだけど、すごく小さいときに(2〜3歳?)実家で祖父に連れられて乗せられていたときの記憶が思いだされて良い感じだった。今は亡き祖父との思い出である。祖父の顔は思い出せないが、軽トラを介して、僅かながらに繋がりを感じることができる。堀越よありがとう。

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