声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、アニメ、人文学等について書いている備忘録です。

170526 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.2

前作がマーベル映画最高傑作、というかスペースオペラ最高傑作レベルの作品だっただけに、今回も並々ならぬ期待のなかで見にいった、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーリミックスVol.2。いやぁ、これが今作もあまり素晴らしくて、前作を凌ぐほどの作品に仕上がっていたので、このブログでも少し書こうかなと思う。製作者のみなさま、ありがとう!本当にありがとう!

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前作の終盤でも示されていたけど、主人公ピーター・クイルのお父さんがどうやら宇宙人らしい、しかもどうやら古代の、普通じゃない宇宙人らしい、というところが、今作のメインテーマとなる。父、あるいは母、あるいは家族との関係といった普遍的な、ともすれば重くなりすぎるテーマを据えて物語は進行していくんだけど、表面上は前作同様、70・80年代のポップソングでテンションが上がりっぱなし、かつスラップスティック・コメディ的に笑えるシーン満載なので、とりあえずただただ面白い作品として楽しめる。前作が、社会からはみ出た、それぞれ居場所のない人間が集まり、一種の疑似家族的なチームを結成する話だったとすれば、今作は両親、あるいは兄弟との関係に決着をつけるというお話になるので、家族、あるいは家族に代わる共同体の在り方という主題はガーディアンズ・オブ・ギャラクシーに一貫したテーマだといえる。

 

映画の冒頭は、主人公クイルの母と父が、ポップチューンを歌いながら車でいちゃつくシーンで始まる。ちなみに謎の宇宙人だと思われていた父は、「ナイトライダー」のデビッド・ハッセルホフっぽい髪型をしている。デビッド・ハッセルホフは、片親の主人公が父親のように敬愛してきたと劇中で語られるわけだけど、実際の父・エゴを演じるのはカート・ラッセルである。複雑…。そしてこの冒頭のシーンは、本作を特徴付ける70・80年代のポップチューンが、実は主人公の父と母が青春時代ともに過ごしてたときに聴いていた曲であることを示していて、とても重要だ。

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母からの最後のプレゼントであるカセットテープの曲は、決してクイル自身のノスタルジーを示しているのではなく、むしろ父と母の青春時代を象徴している存在なのだ。それは主人公と母とのつながりそのものであると同時に、母を通した主人公と父のつながりであり、翻っては「家族」そのものの象徴となっている。これらの劇中歌には、主人公クイルの「欠落」そのものが、そのアップテンポなメロディの後ろに重たく横たわっているのである。

このシーンのあと、父・エゴが謎の植物を植え付けるシーンに切り替わり、その植物をイームズのPowers of Ten的な感じで超クローズアップしていって、場面は現代のクイルたちへ。ここの映像最高だった。そこから本編がはじまるわけだけど、今作も期待を裏切らず、素朴に楽しく、画面のキレイさと新しさに終始感動する。この、まったく素朴に、既視感なく映像に感動できるということは、やっぱりすごいことである。スペースオペラ+ポップソング、という発明的な手法はより洗練されていて、しかしその映像表現は単なる手法ではなくて、前述したとおり映画の主題そのものとも深く関わっていることが素晴らしい。物語では、映画的なユーモアとワクワクの一方で、各キャラクターの過去のトラウマと、そこからの回復が一貫して描かれる。主人公は実の父・エゴとの対決を乗り越え、最終的に、これまで対立し合っていた育ての親・ヨンドゥとの関係を回復していくわけだけど、色んな人種の寄せ集めが擬似家族となり、自らの不幸な出自を乗り越えていくってテーマは、現代のアメリカ人にとってすごくリアリティがあるんだろうなと思う。いやむしろ、こうあったらよかったのにという願望か。ちなみにヨンドゥはほんとにいいキャラだった。どうみてもウルトラセブンアイスラッガーなフィンをつけ、まさにフィン・ファンネル的な矢を操るヨンドゥ。しかもツンデレ。最高だ。あと、ソブリンの戦闘機のピコピコ感もよくて、レトロフューチャー感がここでも響いている。ソブリンの兵士の軽い感じが、明らかに画面の向こう側の俺らって感じがする。

劇中クイルが直面する、「神」となって全ての生命を自らのものとするか、あるいはこのまま普通の人間であることを選び、生命の多様さを肯定するか、みたいな選択。これどっかで見たことあるなぁ…って思ってたら、エヴァだ。これ、まさしくエヴァンゲリオン人類補完計画である。でも、本作の主人公クイルは、シンジくんみたいにクヨクヨしない。まったく悩まず、0.5秒くらいで宇宙の統一よりも仲間をとり、実の父親を銃でぶっぱなす。この感じがまさしく〜00年代と現代の感覚の違いだなぁと思って、こことてもよかった。カラッとしてる感じ。わかりやすくガンダムで考えてみても、やっぱりアムロとかカミーユは色々悩むんだけど、Gレコのベルはあんまり悩まないのである。

 

あと、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはクリス・フォスによる有機的で鮮やかなメカデザインも話題になっていた。スター・ウォーズとは異なる、しかしあったかもしれない、SFの可能性。 あるジャンルの方向性というのは大抵の場合、特定の作品のスタイルによって類型化していくわけだ。そのときに、なんとなくそのスタイル踏襲し、同じような映画を再生産するのではなくて、「じゃない」方まで遡り、「じゃなかった」場合の可能性を追求するということ。これはアートやデザインをやっている人間にとっては超重要なことだから、本作の鮮やかな手際はとても参考になるところだ。過去の「じゃない」方の可能性を、現代にいかにして召喚するのか。

わかりやすくガンダムで例えると、ジオンの量産機のモデルがザクではなく、ヅダだった場合、どんな世界が待っていたのか…、みたいなことである。建築で言えば、たとえばミース・ファン・デル・ローエではなく、アドルフ・ロースモダニズムのモデルとなった世界があったら…、みたいなことだろうか。そういえばエゴ星のデザインはクリス・フォス感を踏襲していて、マニエリズム化したアール・ヌーヴォー、あるいは曼荼羅、という感じだったけど、これもなかなか面白くて、美しいのだけど、生命力がなく不気味。あるいは、全部自分だけの判断で考え出しちゃったデザイン、という感じ。自分ひとりで、しかも長い年月孤独にデザインを進めた場合、どうしても過剰になってしまう。そしてパラダイムの変革みたいなものも絶対に起こらない。だからこそ多様さが大事なんだと、こういう意味も(おそらく)含みこまれている敵キャラのデザイン、素晴らしかったです。