声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

170917_物質試行47

●瀬戸内で撮った写真⑩

こんぴらさん鈴木了二「物質試行 47」のつづき。 

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●物性の生々しい表出、既製品のコードを逸脱した使用法と組み合わせ、考え込まれた構法。建築の「モノ」としての側面にひたすら真摯に、そして批判的に向き合うことで、唯一無二の空間が生まれている。建築が生命力をもっているような、“ざわめいて” いるような、“何かが起こりそう”な、雰囲気。あるいは、「なにか取り返しのつかないことが起こってしまった」、ような空気感といってもいいかもしれない。いずれにしろ、一般的に「建築」なるものが生み出すことのできる情調とは、明らかに異質なものが立ち現れている。

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●工業部品は、慎重に脱コード化され用いられることで、「それそのもの」としかいいようがない物体へと、昇華されている。それがもたらすのは、独特の「不気味さ」や「不穏さ」である。建築を構成する物品の絶対的な他者性を、“その” 性を、圧倒的な理解のできなさを、まざまざと見せつけられる感じ。そこにぼくは、深く魅惑されてしまう。あぁ、ぼくもこうものが作りたいんだなとおもう。

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●加えて、近代建築の様々な建築家のオマージュ、たとえばジュゼッペ・テラー二の、が、非常に爽やかに用いられていることがとても印象的だった。いわゆるポストモダン建築のようないやらしさは、まったくない。金毘羅宮そのものが神仏習合の、仏も神も渾然一体に祀られている場所であり、本堂をみても、様々な時代の様式がハイブリットされていることがわかるのだけど、そういう状況が、この建築を無理なく成立させているひとつの文脈となっているとぼくは思った。でも、それだけではない。この建築の「引用」の用いられ方は、まず、まったく記号的なものではない。「かたち」を問題にしていない。ここでの引用の内容は、目に見えぬ構成であり、尺度であり、素材であり、技術である。それらは了二さのいう「ダブ(DUB)」りうるものたちなのかもしれない。「ダブ(DUB)」によって無-意味となる記号とは異なるものたち。体験する側の知識や、建築に関するリテラシーを、特段問うわけではないものたち。必要なのは身体のみであり、「引用されている」ということは特に対象化される必要がないのないのかもしれない。だからこそ、了二さんの建築は様々な近代建築の言語を引用しながらも、とても爽やかに感じられるのだとおもう。時代や様式やイデオロギーを軽やかにブリッジしながら、それでいて強い。

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(物質試行47 金刀比羅宮プロジェクト, 2004, 鈴木了二)

(Canon AE-1, New FD Zoom 35-70mm 1:3.5-4.5, FUJIFILM 記録用フィルム 100)