声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、アニメ、人文学等について書いている備忘録です。

170919_三次市民ホール きりり

●瀬戸内で撮った写真⑫

●6日目(8月31日)。大三島を出発して、いよいよこの日から、広島に突入。 

広島市へ行く前に、三次市へ。青木淳設計の『三次市民ホール きりり』を見学。1000席の大ホールがプログラムの中心なんだけど、隣接する川の洪水の可能性が報告されていたため、建物をを5m持ち上げたことが特徴となっている。ある意味これは人口地盤だとおもったけど、そういえば大高正人の『坂出人口土地』も、一つ目の人工地盤のレベルがたしか5300mmだったよなあと思い出す。5m持ち上げられた下は駐車場になっていて、コンクリートとそのスケールが相まって、土木的な空間。フライタワーがそのままむき出しに、とても即物的にあらわれているところも、なんというか土木的で、ぼくはとてもかっこいいと思った。小物がいくつかギュッと寄り集まっているような外観は、ホールの規模の大きさを和らげ、まちのスケールとの連続感をつくっているけれど、それにしてもちょっと異物感があるな、と思った。ドライすぎるのかな。ぼくはいいと思うけど。

●「建築を5m持ち上げます」という、とても潔いコンセプトは、3.11以降の建築を象徴するものだなと思った。そしてこの建築は、ある意味とても、シンボリックな建築だなと思った。むかしは、「シンボル」といえば、「かたち」のことだった。でもこの建築が持っているシンボル性は、「5m持ちあげる」ということで発生する安心感、信頼感みたいなものからきている。つまり、かたちのないシンボル性だ。できる限り建設費を抑えるためのアイデアや、使い勝手の良さを優先した空間的な配慮など、青木さんは建築家のエゴを極力排して設計をおこなっているけど、その態度もまた、この、かたちのないシンボル性に寄与しているのだと思う。

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●5m上がると、フロアのレベルは完全にフラットで、裏も表もないような空間構成となっている。たとえばホールの「裏空間」の代表格である楽屋は、普段はスタジオや練習室として使用できるようになっていて、ホールというプログラムが、市民にとってブラックボックスになることを慎重に回避している。廊下は、ただの通過するための廊下ではなく、少しオーバースケール目に設計し、かつ両サイドに開口部を必ず設けることで明るい空間にするとともに、窓台やベンチなどの身体の拠り所となる部分を付加することで、なにかしらの行為が発生しうるような空間となっている。一方でホワイエや、この建築の玄関口となる大階段は、限りなくシンプルに設計されていているから、豪華なウラと簡素なオモテ、ってかんじで、通常のホール建築のセオリーがそのまま反転されているようだなと感じた。土木的なスケールと身体的なスケールが、その中間部分をスキップして直接結び付けられているような、「ドンシャリ」的な建築だなと思った。

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●一方で、たとえばピロティのストラクチャーの面を、グレーと白で塗り分けていたりして、とてもマニアックな操作が、効果的に、かつさりげなく、なされていた。マニアックたけど、手法のための手法になっていないというか、開かれている感じがして、これはなんだろうかと思った。『建築を思考するディメンション』という、坂本一成がいろんな建築家と対談している本があって、青木さんと坂本さんも対談しているのだけど、そのトークの後の、山本理顕の質問を思い出す。たしか、「ふたりとも、そんなにマニアックなことばっかりやってて、どうするんですか。どうしたいんですか。」みたいな質問だったと思う。それは、青木と坂本の建築に共通する、「わかるひとにはわかる」的なところの、その閉鎖性に対する批判だった。この建築における青木淳の「市民ファースト」的な態度は、3.11以降のナイーブな状況を象徴するものだともいえるし、そのような状況で公共建築を作るということに、青木さんがとても真摯に向き合っているということだと思うんだけど、マニアックな操作をさりげなく盛り込んでいるところに、「市民ファースト」だけでは決して終わらないという青木さんの意思と、それによってもたらされる、空間の少し異質な感じを、ここで感じたのだった。

●震災後のナイーブな雰囲気のまま、それだけで建築が作られていたら、この建築はこんなによくなっていなかったと思う。青木さんのこのマニアックな操作がなかったら、この建築はナイーブすぎるというか、気を使いすぎというか、Political Correctness的な建築になっていたと思うし、ぼくは多分そこに嫌気が差していたと思う。青木淳の個人的な欲望による、極めて作家的な操作の束は、場合によっては「多数決」によって多くが決まってしまう公共建築の閉鎖性を壊し、宙吊りにしているのだと、ぼくは思った。

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●おまけだけど、この建築を撮った写真を整理していたら、最終的に横向きの写真だけになってしまった。横向きの写真はどこか観察的で、縦向きの写真は断定的な感じがするけれど、横向きだけになってしまったというのは、この建築のフラットな空間の性質によるものかもしれない。

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(三次市民ホール きりり , 2014, 青木淳)

(Canon AE-1, New FD Zoom 35-70mm 1:3.5-4.5, FUJIFILM 記録用フィルム 100)