声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、アニメ、人文学等について書いている備忘録です。

170921_呉南特別支援学校

●瀬戸内で撮った写真⑭

●7日目(9月1日)、広島市のドミトリーからスタート。学会の会場である広島工業大に少し顔を出してから、建築見学へ。ぼくの発表は次の日なので、この日はフリーで行動できた。この日の第一目標は、呉市にある『広島県立呉南特別支援学校』。坂本一成の最新作だ。もう新学期がはじまってしまったこともあり内部見学はできなかったが、外観だけでもと、呉市まで移動する。広島から30分くらいだったかな。呉市といば、昨年の映画「この世界の片隅に」を思い出す。

●『呉南特別支援学校』は、なんてことない佇まいで建っている。「学校らしい学校」という感じ。坂本さんの建築は、家は家らしく、学校は学校らしく、アパートはアパートらしく、なぜかその建築の原型を感じさせるような雰囲気をまとっている。かといって、完全にステレオタイプではなく、どこかずらされている。

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●周囲の環境から突出しているわけでは決してないが、埋没もしていない。「対象としての建築」と「環境としての建築」の、そのどちらかに固定されるのではなく、見方次第で、「対象」にも「環境」にも、どちらにもなりうるような存在のしかた。坂本さんは、たとえば「代田の町家」の袖壁や、「QUICO神宮前」のツノのように、環境に連続したものをつくりつつも、最終的に、機能的には別に付けなくてもいいものを付加したりする。いや、坂本さんからすればそれらは「別につけなくてもいいもの」ではなく、それがないと建築を存在させることはできないという類の、重要なエレメントなんだと思うけど。とにかく、「タイプ」を強烈に、かつシンプルに喚起させるような造形をおこないつつ、ちょっとした操作でそれをずらすのだ。周辺に完全に同調するのではなく、かつ乖離するのではない、坂本さんの建築はそういう雰囲気をもつ。

●ちなみに去年だったかな、平野利樹さんの企画によるシンポジウムで、千葉雅也さんが建築会館で講演されたことがあったのだけど、そのときに千葉さんが「非ファルス的膨らみ(non-phallic mound)」ということをおっしゃっていて、ぼくはそれを聞いて、坂本建築の「建ち方」について考えていた。坂本さんの建築の、「環境化」と「対象化」がぐるぐると、ループし続ける感じ。「平凡」でもなく、かといって「不気味」でもなく、「不気味でないもの」という表現は、坂本さんの建築にこそふさわしいような気がする。ちなみに10+1で記事化されているので、興味のある方は読んでみてほしいと思う。

http://10plus1.jp/monthly/2016/12/issue-01-2.php

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●それと重要なのはやはり、スケールだ。坂本さんのもつ建築のスケールは、ちょっとちいさい。それが周辺の環境との無理のない接続を作っていることは明らかだと思うけども、建築のスケールというのは常に相対的なものだ。たとえば、「ちょっとちいさい」といっても、「家としてはちいさい」、「学校にしてはちいさい」、「アパートにしてはちいさい」というように、ぼくらが「ちいさいな」と感じる印象というのは、常にその建物の用途やタイプとの関係で決まってくる。たとえばこの『呉南特別支援学校』を、ぼくは「ちいさいな」と感じたのだけど、それは「学校にしてはちいさい」ということが前提になっていて、もちろん「家」にしてはおおきなサイズ感だ。加えて、周囲との関係でも、「おおきい」「ちいさい」は決まってくる。周囲に何も比較するものがない状態だと、建物のサイズ感は把握しにくい。一方、隣接する建物がある場合、その建物のサイズと比較して、「おおきい」「ちいさい」が決まる。それだけではなく、建物の構成要素のスケールも重要だ。たとえば『呉南特別支援学校』では「軒」の操作がされているけど、「窓」や「柱」なんかも重要だ。それらは、ぼくらが建物の大きさを測るとき、慣習的に「手がかり」としているものだ。だから、構成要素のスケールを意図的に操作することで、建物の「おおきさ」に関する印象を、ぼくらはコントロールすることができるのだ。

●「用途(タイプ)」、「周辺の環境」、「構成要素」、、。ぼくらが建物に対して抱く「おおきさ」は、様々な水準での関係により、相対的に決まってくるものだった。しかし、坂本さんの建築の「おおきさ」は、それが家でも学校でもアパートでも、都市部でも田舎でも、何をやっても、坂本さんの建築固有の「おおきさ」をもっている。ああ、これは坂本さんの建物のスケール感だなぁ、と、どの作品を見ても思う。これは、すごいことなのだ。スケールに関する卓越したセンスとバランス感覚をもっているとしか言いようがない。ぼくが知っている建築家のなかでも、「相対音感」ならぬ「相対スケール感」をこれほどしっかり持っている建築家は坂本さん以外にいない。一方で、ここの天井高は2300mmだ、みたいな感じで、常に建物の物理的なスケールを把握することができるような、「絶対音感」ならぬ「絶対スケール感」を持っている人は、職業的にたくさんいると思う。どちらかというと「絶対スケール感」よりも、「相対スケール感」のほうが、トレーニングしてもなかなか身につかない、難しい感覚なのだと思う。

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●この建物は、特別支援学校だ。だからこそ、「特別」ではない佇まいで、「学校らしく」建っていること、そして、なんの変哲もなく日常的に、堂々とこの場所に存在していることは、とても切実な意味をもつ。特別支援学校に通う子どもたちは、聴覚障害や知的な障害を診断されていて、その障害に合わせた専門的な教育をおこなう必要がある、と、それは事実だろう。それは「特別」なことかもしれない。でも、それだけだ。それ以外は他の学校の子どもたちと、たぶん何も変わらない。想像の域は超えないけれども、友達や先生と笑いあい、授業をしっかり受けて、夕食をを楽しみに道草をしながら帰る、というように、おそらく彼 / 彼女らは、ぼくらと何も変わらない「平凡」で「普通」な日常を、小さな発見や喜びをそのつど見つけながら、淡々と送っているのではないか。それはもちろん、あたりまえのことなのだけど、それがあたりまえのことなのだということを、坂本さんの建築の「建ち方」は気づかせてくれるような、そんな気がするのだ。

  「なんでもない」ということをささやかに、しかし力強い口調で主張することはこれまでの坂本さんの建築にも見られたスタンスだけれど(むしろその一点で貫かれているとも思う)、今回の呉南特別支援学校ではそうした建築的な「操作」や「レトリック」が、坂本さんの個人的な空間の美学や、あるいはある偏ったイデオロギーへの危機感に依拠するものではなく、「特別支援学校」というプログラムへの返答として、ある種の社会的な枠組みと接続し立脚点が整備されていた、ということだとおもう。もちろん住宅なのか公共なのかという違いはあるにしろ、そういう意味で今回の「呉南」は、より説得力のある「日常性」が建ち上がっているのではないか。 同様のことは青木さんの三次市民ホールでも感じたことだった。『建築を思考するディメンション』で坂本と青木さんが対談した際の、山本理顕さん示した「そんなマニアックな建築、意味あるの?」という疑義へのアンサーを、両者とも公共建築で、しっかり実現している。これにぼくは、勝手にではあるけれど、大変勇気づけられた。本当に、見にこられてよかった。内部も、いずれ見学させていただく機会等あればなぁとおもう。

o-tkhr.hatenablog.com

 

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f:id:o_tkhr:20170921130301j:plain(広島県立呉南特別支援学校 ,2016, 坂本一成)

(Canon AE-1, New FD Zoom 35-70mm 1:3.5-4.5, FUJIFILM 記録用フィルム 100)