声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

171010_未来の幽霊

 もう3週間くらい前になるけど、「未来の幽霊 ―長沢秀之展―」を見てきたので、備忘録もかねて、少し書き残しておこうと思う。

 記念写真や肖像写真といった写真を、キャンバスの上に正確に模写する。そしてその上に、筆致の集積を点描のように置き、色彩を重ねていく。長沢さんの近作群、《未来の幽霊》は、ごくごく単純に言えばそういったプロセスで制作される。下層の模写に関しては「重要なのは、デッサン力よりコピー力」であり*1、機械的な作業を通し、極めて具象的なフィギュアが描かれる。一方で上層のドット群も「絵の下層の図像と全く関係なくランダムに絵の具をおいていく(op.cit. *1)、ことで、同じく機械的に描写されていることがわかるが、こちらは非常に抽象的な内容となっている。ここでは絵の具の物質的な肌理(長沢さんの言葉を借りればそれは“エロス”ということになるんだろうか)のみが、厳しく制御された色彩と間隙のリズムを伴って描かれている。ちなみに山本和弘さんと佐々木敦さんによるカタログ掲載のテキストが長沢さんのHPで公開されていて*2、どちらも非常におもしろく読んだのだけど、佐々木さんの方が下層の「写真」を、山本さんの方が上層の「点描」を議論の主調にしていることが特徴的だ。個人的に佐々木さんと山本さんの議論は、どちらかだけでは不十分で、両者を重ね合わせることではじめて、長沢さんの絵画を説明するひとつのパースペクティブが得られると感じている。何はともあれ、写真の模写と点描の重ね合わせという絵画構造と、それらを極力機械的に描こうとする長沢さんの態度が何を意味し、そこで何が起こっているのかということについて、この記事でひとまず整理しておこうと思う。

ⅰ ).  “時間”の物質化

写真とは端的に瞬間を固定するテクノロジーである。……(中略)……写真が定着する瞬間は実際にはどこにも存在していない。現実の世界の時間はひたすら切れ目なしに持続しているのであって、そこに無理矢理、不可能な切断を施すのが「写真」というものなのだ*3

と佐々木さんが指摘するように、写真とはすなわち非-時間である。現実には存在しない瞬間を生け捕りにすることで、写真は時間が止まった世界=死んだ世界を表徴し、その世界の住人=幽霊を出現させる。写真のなかの人物たちは、「それは=かつて=あった」*4ことだけは確かなゆえに、幽霊なのである。では、写真=非-時間をわざわざ模写するという行為は何を意味しているのか。それに対する佐々木さんの以下の指摘は、極めて正しいと思える。

長沢は写真機のシャッターが押された瞬間を、自らの絵筆によって時間的に引き延ばしながら反復する、ということをやっている。それは、その像がこの世に誕生したメカニズムを、逆向きに再生するということでもある。……(中略)……。長沢はその、いうなれば「瞬間の幽霊」を、固定から解き放ち、持続し変化し続ける時間の相へと、「現在」という「過去」以上にわけのわからない何かの内へと、投げ入れてみせる。(op.cit. *2)

長沢さんは、「描く」というどうしようもなく時間の要するプロセスを写真に導入することで、いわば濃縮還元ジュースのように、一度は時間が奪い取られてしまった写真という存在に対し、再び時間を付加しているのだ。加えるなら、その上に重ねられる「点描」もまた、ぼくには同じことに思える。模写に重ねられた絵の具の筆致は、「物質化された時間」だといえないか。事後的に長時間露光するようなかたちで、非-時間的な存在から時間的な存在へと、「それは=かつて=あった」ことをもとに生きた時間をリバース・エンジニアリングすること。それが、ここでの「描く」ということである。そして、「デッサンではなくコピー」だと長沢さんがいうとき(op.cit. *1)、積極的に機械の一部になろうとする長沢さんの意思を、ぼくは感じるのだ。ここで長沢さんが目指しているのは「画家」ではなく、かといって「写真家」でもなく、「カメラそのもの」ではないか。それも、時間を切り取るのではなく、時間を事後的に引き伸ばすカメラに。

 

ⅱ ).  視線を代替する装置としての「カメラ」

  佐々木さんはもうひとつ、重要な指摘を行っている。

カメラとはテクノロジーだが、同時にそれは「視線」でもある。……(中略)……写真の中でこちらを見ている人々は、カメラと見つめ合っており、カメラのこちら側にいる誰かと見つめ合っており、そしてその写真を見る者と見つめ合っている。(op.cit. *2)

過去の被写体と未来の観賞者の視線が、カメラを中継することで交換される。たしかにそれは、カメラがもつ不気味で魅惑的な、そして本来的な機能のひとつであると思える。集合写真や記念写真といった、こちら側を凝視する写真を長沢さんが選択するのは、あきらかにこの「視線の交換」を意図してのことである。ここでの「描くこと」が意味するのは、カメラのもつ「代替的な視線の交換」というプロセスのなかに、画家もまた参加するということにほかならない。

f:id:o_tkhr:20171010234209j:plain

長沢はその視線の交錯の連鎖を残したまま、その像を「写真」から「絵画」に変換してしまう。その作業をしている或る長さの時間、画家もまたそこに写った彼ら彼女らと見つめ合い続ける。(op.cit. *2)

写真を「絵画化」することで、視線を交錯させるというカメラ的プロセスの中に、まさに当事者として入り込むのだ。でもこの説明だけだと、モノクロ写真を引き伸ばして展示した場合と長沢さんの絵画で、そこで起こることに、あまり差がないように思えてしまう。両者の決定的な差異が、感覚的には明らかなものの、うまく説明しきれない。ここで重要となってくるのは、「模写と点描の重ね合わせ」という絵画の持つ構造そのものであり、今度は山本さんのテキストが補助線となってくる。

 

ⅲ ).  絵画に対する垂直運動

 山本和弘さんが注目するのは、長沢さんの絵画がもつ「垂直運動」である。山本さんによれば、近代絵画にはしばしば、絵画と観賞者の「適切な距離」が設定されている。さらにその背後には「ベルトコンベアに乗せられたかのように絵画との等距離を保ったままその前を経時的に移動する*5という、いわゆる回廊式鑑賞という美術館空間の形式があり、それは近代的な制度として美術作品の枠組みを作っていた。「適切な距離」をもう少し噛み砕いて解釈してみる。たとえば、「りんごが描かれた絵」があったとしよう。このとき鑑賞者であるぼくらは、基本的には自由に絵画との距離をとることができる。しかしそうはいっても、絵画からの距離が遠すぎると「りんご」は認識できないし、逆に距離が近すぎても、絵画はただの絵具の断片にしかならない。「りんご」という像が鑑賞者の中で現象するのは、絵画とのある限られた範囲においてのみである。

 「描く対象」が存在している限り、鑑賞者と絵画の間には常に、絶対的な距離が立ちはだかっている。ゆえに、「絵画が現象させる像」と「絵画の即物的な質感」を同時に見ることは、原理的には不可能である。これが近代絵画のもつ宿命的なアンチノミー、「パラドックス・ビュー」であると、山本さんは指摘する。絵画に近づいたときに見える絵具の筆致や肌理はときとして、描かれた像と無関係にぼくらを魅惑する。しかし、近代絵画という文脈においてはつねに、絵画の“質感”は「描かれたもの」に従属しているのだ。ぼくらは絵画を前にしたとき、「パラドックス・ビュー」という足枷なしには、動けない。

像基体と像現象の二重の鑑賞、しかもそれらを同時に鑑賞することはできないという意味において絵画は、 いわばパラドックス・ビューを宿命としてもつ。しかしながらこのパラドックス・ビューを絵画の問題として措定し、その解決法を絵画そのものへとフィードバックした絵画はこれまでにはない。長沢が画像属の三種すなわち絵画、写真、映像の中でも特に絵画に顕著なパラドックス・ビューを近代主義絵画の継承問題として見出し、当の絵画そのものにおいて解決する作品を創出することを可能にするのは、写真と映像との差異を探求した結果である。(op.cit. *5)

「像現象の距離」について、もう少し詳しく考えてみよう。「絵画」では前述したとおり、像現象には「適切な距離」が存在しているものの、鑑賞者はそこから離れ、たとえばごくごく近距離から絵具の肌理を楽しむことが可能だ。そして「絵具の質感」は描かれた像とは無関係に、常に絵画の本質のひとつである。しかしそれゆえに、「適切な距離」からの違反なしに絵画を鑑賞しきることはできないという矛盾を、近代絵画は常に孕んでいた(パラドックス・ビュー)。「写真」や「映像」はそうではない。これらの場合、「像現象の距離」は常にカメラに委ねられていて、鑑賞者に決定権がない。たとえば写真の場合、プリントと鑑賞者の距離が5mであれ10mであれ、像との距離はその写真が撮影された際の被写体とカメラとの距離で固定されている。写真において、像は「現象」しないのであり、ここでは「像現象の距離」が、問題にすらなっていないのだ。「パラドックス・ビュー」は絵画特有の問題のひとつであると同時に、「写真」や「映像」では明らかに発生しない、その可能性のひとつでもあると言えるだろう。

  「パラドックス・ビュー」の解決方法は、2つである。まずひとつは、絵具とキャンパスという絵画の「支持体」を放棄すること(ジャッドやスミッソンの仕事がそれにあたる)。もうひとつは、「描く対象」を放棄することで、絵画の質感のみを問題とする態度(たとえばポロックの仕事がそれにあたるだろうか)。長沢さんの仕事は、そのどちらでもない。そのどちらも、長沢さんは放棄していないからだ。長沢さんは絵画原理主義ではあるけれど、それゆえに芸術原理主義ではないのだ(写真・映像への眼差しなしに、近代絵画の批判的な前進は不可能であるという意味で)。山本さんは長沢さんの近作群を「ミクロ的視覚とマクロ的視覚の重層化」だと分析している。「模写」の上に重ねられた「点描」は単なる抽象画ではなく、「奥に見える像を顕微鏡的に拡大した像である」という解釈である。同一のフィギュアを異なるスケールで描くという長沢さんの過去の実践を踏まえると、山本さんの解釈はごく自然なものであると言えるし、ぼくも全面的に同意する。長沢さんの絵画において描かれているのは、「具象的な写真の模写」と「抽象的な点描」の重ね合わせではなく、異なる2つのスケールで描かれた、まったく同一のフィギュアの重ね合わせではないか。さて、この構造を踏まえ「像現象」という視点から長沢さんの絵画を分析してみると、

下層:写真が正確に模写されている。像現象は元写真を撮影したカメラにより確定している。ゆえにそこに描かれているのは、どの距離にいようが、「描かれた対象」のみ。

上層:下層が顕微鏡的に拡大されている。概念的には、像と鑑賞者の距離は極めて"近い"。ゆえにそこに描かれているのは、どの距離にいようが、「絵具の肌理」のみ。

ということになる。長沢さんの絵画では、近代絵画特有の「適切な距離」が、慎重に相対化されているのだ。鑑賞者はどの距離にいても、「描かれた対象」と「絵画の肌理」の、そのどちらも鑑賞することとなる。特定の距離で特定の像が現象するということがないため、「どの距離でも、絵画から得られる情報量は一定」である。

人類学は、20世紀後半にはすでに、多元的な世界についての見方からポスト多元的と呼べるような見方へと移行している。私の説明もこの意向に倣ったものである。無数のパースペクティヴが生み出す増殖効果への気づきは、置換効果への気づきへと至り、そこではいかなるパースペクティヴも想定とは異なり、(加算することで辿り着けるような)全体的な眺望を提供することはできないことが感知される。ポスト多元主義の人類学は遠近法的であることをやめているのである。」*6

長沢さんの絵画を見ていてぼくは、上記の言及を強く思い出した。ストラザーンの考え方を借りると、長沢さんの絵画では「像現象に部分の情報を加算していくことで全体的な眺望を獲得する」というような遠近法的な鑑賞方法が通用しない。むしろ長沢さんの絵画では、1m先から見ようが、10m先から見ようが、30m先から見ようが、どの距離にいても、それぞれの距離でそれぞれのパースペクティブが発生し、それぞれの仕方でそれぞれの像が発生する(これらは"加算"できない)。このとき、「適切な距離」は存在せず、むしろ、「どの距離も適切」となる。長沢さんの絵画において、絵画とどのくらいの距離をとるのかという問題は、鑑賞者に一任されている。近くても、遠くても、中程でも、正解はない。どの距離も等価に楽しいのだ。結果として、《未来の幽霊》は、絵画との垂直方向の運動を鑑賞者に要請する。

  こうした構造を、長沢さんはなぜ絵画に実装したのだろうか。山本さんはテキストを、「像基体と像現象はここで互いに批評しあい画像として絵画を統合する。これは写真と映像がその機能においてあらかじめ持っていた批評性であり、絵画における批評的他者なのである。長沢の新作絵画群はこの批評的他者を絵画に招き入れたのである。(op.cit. *5)と締めくくっている。近代絵画を批判的に乗り越えるため、写真や映像といったメディウムを慎重に観察し、像現象を相対化すること。たしかにそういう側面もあるだろう。でもぼくには、それだけが理由だとは、どうも思えない。

 

ⅳ ).  観賞者が、過去との「対話」のプロセスに参加すること

 ここで、さきほどの議論を思い出そう。カメラとは、「時空を超えて視線を交差させる機械」である。長沢さんは「描く」という行為により、「視線の交錯の連鎖」という特性を残したまま、「死んだ写真」を「生きた絵画」に変換する。「描くこと」を通すことで、過去と現在の、そして未来の人々の視線を交差させるカメラ的プロセスのなかに、まさに入っていき、そしてそのとき長沢さんは、極めて即物的な意味で“カメラ”になっていた。一方で長沢さんの絵画のもつ構造、「パースペクティブの複数性」が要請するのは、鑑賞者の垂直運動であった。そこであたかも鑑賞者は、知らず知らずのうちに、カメラのレンズのようなズーム運動を繰り返していた。

 長沢さんの絵画がもつ「垂直運動」は、「カメラになる」ということと、極めて重要な関係にあるように思える。これは佐々木さんの議論と、山本さんの議論の結節点である。絵画を前にして垂直方向に体を動かすことは、近代絵画や写真では固定されていた「絵画との距離」という問題が、鑑賞者に委託されている状態にほかならない。こう考えることはできないだろうか。「この垂直運動により、鑑賞者であるぼくらは、制作者自身と同じように、いつの間にか“カメラ”そのものになっている」、と。絵画を前にして動くぼくらの足は、「カメラ=過去の人々と視線を交わす代替装置」の機能の一部として使役されており、過去と未来を結びつけるカメラ的な代替因果のプロセスのなかに、知らず知らずのうちに「参加」している。

 《未来の幽霊》は、制作者自身の「カメラへの生成変化」にともなって、観賞者をもまた「カメラ化」させる。過去の人々と視線を交差させるプロセスのなかに参加し、そこでのアクセシビリティを獲得すること。そのとき絵画がつくる空間は、かけがえのない過去の人々と、あるいは未来のだれかと、瑞々しく出会いなおし、「対話」をするための場となる。長沢さんの絵画の制作プロセスと、その構造は、その一点に向かっているような気がするのだ。時空を超えた「視線の交換」を信じること。それはとても、ロマンチックなことだと思う。

そして対話: カメラの一瞬の目を通して、過去の、今はもういない人たちにまなざしを向ける。故人であろうとまだ生存していようと、その人たちはここにはいない。しかしこの亡き人たちと言葉を交わし、微笑みを交わすことはできる。 ちょうどそのことと同じように、未来の一瞬において、私たちを見ている者が確実にいる。私たちが今カメラを見、その瞬間、切り取られた写真の一部となり、そうして私たちが死に絶えて、また長い時間が経ったとして、その写真が未来の誰かにたしかに届けられるように、未来の誰かはそこで私たちを呼び起こす。(op.cit. *1)

 

*1:長沢秀之, 「未来の幽霊」, 展覧会カタログ, 武蔵野美術大学, 2017

*2:http://nagasawahideyuki.net/news/1016.html

*3:佐々木敦,「視線の幽霊」, 展覧会カタログ, 武蔵野美術大学, 2017

*4:ロラン・バルト,「明るい部屋」, みすず書房, 1980

*5:山本和弘,「長沢秀之の新しい絵画についての一考察」, 展覧会カタログ, 武蔵野美術大学, 2017

*6:マリリン・ストラザーン, 「部分的つながり」, 水声社, 2015