声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

APR.20,2018_中平卓馬について①

○けっこう前のことだけど、渋谷のCASE TOKYOで中平卓馬の個展『氾濫』をみてきた。

1938年に東京で生まれ、2015年に亡くなった写真家で批評家の中平卓馬。同展で紹介する作品『氾濫』は、1974年に東京国立近代美術館で開催された『15人の写真家』展に中平が出品した、48点のカラー写真からなる横6メートル、縦1.6メートルのインスタレーション作品となる。制作から約40年以上を経ており、同展では展示スペース内の壁面に再現されるという。
https://www.cinra.net/news/20180307-nakahiratakuma

となっているけれど、近美での展示を“再現”は全然してなくって(解体した作品集で再現していた)、作品集の販売のほうがメインという感じだったので若干騙された感はあった。ただ今回刊行された作品集『氾濫』はインスタレーションの雰囲気を誌面上で再現した良作品集で、これが入手できたのはよかった。本書に収められていたフランツ・K・プリチャードによるエッセイ「都市氾濫の図鑑――中平卓馬の写真的思考と実践」(倉石信乃訳)も非常によくまとめられた良いテキストだった。この作品は1973年に刊行された「なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集」(以下、『植物図鑑』)と同一射程にあるのはあきらかで、両者はセットで読み進めていく必要があるのだろうと思う。この『植物図鑑』はぼくにとっては非常に重要なテキストで、いつかブログでまとめたいと思っていたものなので、今回からやっていこうと思う。今回が中平の概要、次回が『植物図鑑』について、次々回が《氾濫》についてって感じか。次回がいつになるかわからないけれど、、。

 

○何回か言及している気がするけど、中平卓馬はぼくにとって最も重要な写真家で、自分自身で写真を取り始める以前から、とくに晩年の中平の写真に強烈に惹かれていて、フィルムで写真を取り始めたり、写真について考える直接的なキッカケになった。なぜ当時あれほどまでに惹かれたのかは、まだ上手く言語化できないのだけど、最初はごくごく素朴に、中平の写真での実践や言説が、ぼくが建築を設計する上でそのときに考えていたこととピタリと重なる感じがしたのだ。中平には、ぼくが強い影響を受けている建築家、坂本一成との共通点もけっこうある気がしていて、惹かれたのはそれが理由かもしれない。詩性の排除に向っていくところや、「しゃべりすぎ」ることへの抑制、自己批評を積み重ねることで自身の表現方法を変容させていく点、そして両者ともに多木浩二と強い影響関係にあること、など、、。個人的には坂本と中平は、あるパースペクティブのなかで比較し、語られうるという予感がある。いつか2万字くらいでまとめたい(これは本当にいつになることやら)。

  中平の写真制作は常に、政治権力や都市環境、あるいは写真・映像を用いたメディアへの激しい疑義を背景として、「見ること」に向けた厳しい批評としておこなわれていた。1960年代の中平のモノクロ写真の仕事や、あるいは中平が多木浩二高梨豊らとともに創刊した『プロヴォーク』(『プロヴォーク』 | 現代美術用語辞典ver.2.0)についてなどは、ここで取り扱うにはあまりには重いテーマなので割愛したいのだけど、この時期の中平の写真はおおむね粗い粒子でピントの定めない「アレ・ブレ・ボケ」とよばれるもので、当時の不穏な時代状況をアクチュアルに捉えたものであった。

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 とはいえ、「アレ・ブレ・ボケ」というフレーズで森山大道や中平、高梨ら『プロヴォーク』の活動をくくるのはをかなり大雑把な分類であって、たとえば中平が『来るべき言葉のために』を刊行したのが1970年、森山大道の『写真よさようなら』が1972年だけど、同じく「アレ・ブレ・ボケ」表現を用いた両者の仕事は、実はかなり異なるベクトルを向いていると思う。たとえば森山は事物を徹底的に等価に断片化した写真を撮る一方で、しかしナラティブな質というか、人間の感情というか、物語のレファレンスになりうる質みたいなものを残していて、「対象」が興味深く撮影されていると思う(写真集という媒体で森山さんの写真をみると特にそう感じる)。一方中平の写真は、ただただコンポジションのみが残されているという感じがする。事物がもともと持っているマテリアリティをモノクロの荒れたテクスチュアの張替え、ある構成の中で組み立てながら本来事物に備わっていなかった「意味」を創造していくような、そんな異化の手付きというか、詩人に近いような手付きがあるんじゃないかと思う。

 1973年の『植物図鑑』はひとことで言えば、それまでの「アレ・ブレ・ボケ」の写真を一切否定し、写真から「詩性」や「手の痕跡」を排除して、事物を一切の主観なしに直裁に捉えることを主張した論考だ。しかし、自身への批判的な態度に端を発し「植物図鑑」が構想される、つまり理論が実践に先行するような状況のなかで、打ち立てたコンセプトと実際の創作の間の溝をなかなか埋めることができず、中平は言葉と写真が乖離していくジレンマに苦しんでいく。写真撮影には否が応でも自身の身体という強烈な主体が介在するため、中平がそうした矛盾を抱えることになるのは必然だったのかもしれない。その後、中平は酒とクスリに溺れ、1977年、急性アルコール中毒によって記憶の大半を失う。

 記憶を失った中平は、日中、リバーサルを使って、しっかりとピントをあてて対象を凝視するような、「アレ・ブレ・ボケ」とは対極の写真を撮るようになる。

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 かつて実現することのできなかった「植物図鑑」を、記憶を失うことで逆説的に成し遂げてしまったというこの有名すぎるエピソードは非常に強烈で、中平の仕事を語る上で避けて通ることができない。たとえば写真研究者の清水穣は次のように述べている。

記憶喪失とは自分の名を満たしていた実存を失くすことである。「私は中平卓馬だ」という同一性が消え、「中平卓馬」という覚えのない名が私のことだ、と告げられる。「中平卓馬」を「この私」として生きるためには、その空っぽの名前を毎日充填しなければならない。彼はそのために「カメラになった」。(……)外界の光がカメラの内部に入りそれを満たして一葉の写真が生まれるように、世界が「中平卓馬」という空の名前の中に没入しそれを充満させて、失われた実存を再生させる。「私は中平卓馬です」ではなく、「中平卓馬はこれです」。「これは猫です」という同一性の写真ではなく、「これ」の写真。日々の「これ」の写真が、この日、この私を、この色鮮やかな生で満たす。 *1

 油断すると同意してしまいそうになるけれど、中平の残した仕事を解釈していくに、中平の個人的なエピソードを強引に結び付けていく清水の見方を、ぼくは受け入れることができない。建築にしろ写真にしろ、原則としてぼくは、できたものをそれを作った人との関係で捉えたくないなという思いがあって、だから意識的に、ぼくは中平の写真のもつイメージそのものを、あるいは中平が残した言葉そのものを見ていきたいなと思う。そして、そういう見方をとったときに実は、事故がなかったとしても中平は、自力で晩年の作風に到達していた可能性が高いという指摘が可能であると、ぼくはおもう。というのも、あまりだれも指摘していないことだけれど、中平の写真表現はあの事故で劇的に変化したわけではなく、事故以前からグラデーショナルに変化しているからだ。

 そのための参照しなければいけないのは、まず1971年のパリ青年ビエンナーレでの制作行為でだった「サーキュレーション 日付、場所、行為」(以下、《サーキュレーション》)、続き73年の『植物図鑑』、そして74年の《氾濫》である。

 

○今回の話の発端となった《氾濫》の方に、ようやく戻ってくることができた。1974年に制作されたインスタレーションであるこの作品を構成する写真の多くは、『朝日ジャーナル』の連載記事として1971年から73年の間に発表されたもので、この中には「植物図鑑」というタイトルで発表されたものも存在していた。また中平は、1974年の『近代建築』の表紙を1年間担当していて*2、そこで発表した写真もこのインスタレーションに含まれている。カラーで撮られたこれらの写真は、記憶を失う前の中平が「植物図鑑」に向って試行錯誤していた貴重な記録であり、中平の作風の変化が事故をきっかけにしたものでなく、あくまでグラデーショナルなものであったことを照明していく上で、恰好の参照源となるだろう。

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次回につづく(多分)。

*1:清水穣: 日々是写真, 現代思潮新社, 2009

*2:『近代建築』という雑誌はいまでこそ、良く言えば専門的で実務的だけど、悪く言えば地味で批評性のない建築作品が掲載される、というイメージだけど、当時は文明批評的なトンガッた建築雑誌で、表紙はグラフィックデザイナーの木村恒久が担当することが多かった。そのなかで、1974年が中平卓馬、1973年が高松次郎、1980年が山崎博など、木村以外の作家が表紙を担当していた年もちらほらみられる。豪華。