声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

MAY27,2018_ヴェンチューリについて

○R.ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』(1966) は建築をやっている人間にとって必読書のひとつなのだけど、ここで唱えられている「ダック[duck]」と「装飾された小屋[decorated shed]」というあまりにも有名な対立関係は、表層的にしか受け取られていないことが割と多いのではないかと思う。

端的に言ってこの両者の対比は、急速に進行する商業主義とモータリゼーションに対し、近代建築の方法は立ち行かなくなっているよ、ということを示すためのものであった。しかし、ヴェンチューリの議論を商業建築におけるファサードの問題として、つまりはあくまで「イメージ」の問題として捉えてしまうのはあまりにもったいない(実際ポストモダン建築は言語論的な記号論にいっちゃったわけだけど)。ではなくて、近代建築がもつ可能性と限界を吟味しながら、そのオルタナティブを提示する過程において、あくまで一例として商業建築を扱っているんだという視点で、ヴェンチューリの議論は解釈する必要があるんじゃないか。

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商業建築の場合、たとえば「この建物は〇〇を売っている建物です」ということを、外観で明確に示す必要がある。言い換えれば、建物の外観がもつ記号性、もっといえば記号的な形態がもたらす象徴性が、ひとつの切実な機能として求められるようになっていったということ。「duck」と「decorated shed」と差異は、前者はこの象徴性を外形全体で表現するのに対し、後者は内部空間において求められる機能はそれはそれで「小屋」として構築しておいて、外観は事後的に看板として付加している点にある。

それまでの建築では、雨風をしのぐこと、地震に耐えること、朝食の時間帯に東からの朝日を受け止めること、ある程度の時間延焼に耐えること、、、等々、つまりは重力や素材の特性、雨・風・光といった自然環境、あるいは「神」といった、人の手には負えないような「大いなる外部」によって規定される諸々の諸条件に対して、「堅牢で使いやすく美しい」建物を単純でシンプルなかたちで組み上げること、が、合理的で機能的であることの条件であった。それは、そうした条件で規定される機能こそが本質的な機能であり、そうではないものはつまり「装飾」だと、そうした認識につながっていくことになる。

では、商業建築における「外観の象徴性」はどうか?ヴェンチューリがこれを、「新しい機能」のひとつとして捉えていることに注意したい。彼は「機能」と「装飾」を二元的な対立関係に置くのではなく、「装飾」も今やひとつの機能なんだ、という認識に立っている。そしてこうした「機能の複数化」という問題は、ファサードに限ったことではなく、近代化(産業資本主義化)が本質的に含んでいる問題であるということがここでは暗に示されていて、この指摘は非常に重要であるように思われる。

「duck」と「decorated shed」の対比を、単に外形の問題というよりは、「新しい機能」の出現に対する対応の差異、あるいはその是非として理解するとどうだろうか。前者はアヒルの外形を重視するあまり、内部の構成はかなり限定され、さらに雨等の自然環境に対しても合理的ではないだろうなという形態になっているのがわかる。しかし後者は「小屋」(=合理的な形態のひとつの解)であることを手放さない。「外形の象徴性」という新しい機能の出現に対する対応方法としてうまくいっているのは、明らかに後者だろうと思う。

ところで、近代の一般的な定義はというと、たとえばマックス・ウェーバーは中世と近代の違いを、中世:カリスマ的統治、理由なしの統治、と、 近代:官僚的統治、手続き合理性、すなわち「なぜそうしたのか?」への言明の必要性、として記述している*1。世界史的にいえば、立憲制が発明され、宗教的な秩序から国民国家的な秩序へ、ということだろう。そうした状況のなかで、近代建築の特性が、その徹底した純粋化・単純化にあったことは間違いない。同じモノを大量生産し、同じ区画を大量につくり、基準階をひたすら反復していくこと。「手続き合理性」を追求する中で、複雑な諸機能をとりまとめる単純な全体を標榜し、それを徹底して走らせていくこと。 

このような認識を前提にすると、「duck」は諸々の諸条件を「単純な全体」にとりまとめているという点できわめて近代的な産物であり、一方後者においては「小屋」と「看板」が各々に自律し、アドホックで矛盾に満ちた外形をつくることになる。つまり、「外観の象徴性」という「新しい機能」が出現した際に、近代的な仕方でそれに対応した例が「duck」であり、そうではない仕方で対応したものが「decorated shed」であるということだ。ヴェンチューリは後者を支持するが、しかし彼は、キッチュな記号的表現やその意味を重視するという意味合いで、看板建築的なものを賞賛したわけではない。前述したように、新しい機能への対応の仕方としてうまくいっているのは明らかに「decorated shed」の方であって、ヴェンチューリはあくまでドライに「うまくいっている方」を支持しているように、ぼくには読める*2

ぼくがここで言いたいのは、「decorated shed」を、単に記号論的な、つまりは社会に対する「顔」を自在につくるというような表層的な議論として捉えるよりは、新しい機能主義のひとつのモデルとして考えてみたほうが、より面白いのではないかということだった。すなわち、ますます複数化する種々雑多な「機能」を、単一の論理で処理するのではなく、つまりは複数の問題をある単純な図式へと矮小化するのではなく、複数の問題を分化したまま、部分集合のままにしておいて、各々に対応していく方法として、それを理解することだ。「小屋」と「看板」を最初から分けておいて、ひたすらパラレルにそれらの性能を上げていくという「decorated shed」の方法は、もっともっと多様なバリエーションが有りうるのではないか。

たとえば、現代の「decorated shed」として最もよい例のひとつは坂本一成の「House SA」[fig.1]だと思うし、あるいはフランク・ゲーリーの建築[fig.2][fig.3]はヴェンチューリの理論を正当進化させた姿なのではないかとすらぼくには思える(ゲーリーの建築はその外形に反して、中身は単純で機能的な「箱」であることが多い)。両者とも、ある時期までは「記号」という議論を追求していた建築家にも関わらず(坂本の場合かなり批判的にではあるが)、最終的にはそこから脱却したことに注目したい。

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fig.1 「House SA」 坂本一成, 神奈川, 1999

 

 

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fig.2 「ゲーリー自邸」, F. ゲーリー, カリフォルニア, 1978

 

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fig.3 「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」, F. ゲーリー, カリフォルニア, 2003

 

では、ヴェンチューリ自身の仕事はどうだったのだろうか。彼の代表作である「母の家」をみると、興味深いことがわかる [fig.4]。 この建築は「家」としての明確なファサードをもっていて、袖壁の使い方等からも、「decorated shed」を想定して設計されたことは容易に想像できる。ただ面白いのは、ここでは「小屋」と「看板」が明確に分離されておらず、むしろ「小屋」に「看板」が侵食することで、独自の内部空間が出現しているのだ。平面を見ていくと、「看板」が取り付く側の「小屋」の内部空間が「薄く」なっていることがわかる。建物の正面側に小屋の諸機能が凝縮している感じ。ここが本住宅の特筆すべき点だと思う。これを見ていると、「duck」でもなく「decorated shed」でもない、その中庸をついていくことが、ヴェンチューリが本来目指していたところなのではないかとすら思う。

「decorated shed」の方法において重要なのは、バラバラに走らせ、独自の機能的進化を遂げた各構成要素を、最終的に如何にドッキングしていくかという問題なのだけど、残念ながらこの点に関してはまだ議論が成熟していないのが現状だと思う。ヴェンチューリの残した仕事が、言説だけではなく実際設計した建物を含め、そうした議論を煮詰めていく良いレファレンスになることは間違いない。

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fig.4 「母の家」, R. ヴェンチューリ, フィラデルフィア, 1964

 

○自宅から大学に行く際には東武野田線(もとい東武アーバンパークライン)をつかうのだけど、最近は柏駅ではなくて豊四季駅を使うことが多い。

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(Leotax K, LEONON 50mm F2, 記録用 100)

*1:その他、たとえばB.ラトゥールは純化と翻訳のプロセスとして近代を定義しているが、これも非常に明瞭 (『虚構の「近代」―科学人類学は警告する』, 新評論, 2008)。

*2:スコット・ブラウンとヴェンチューリが「それ自体が建物であるサイン(あひる)」よりも「建物の正面に立つサイン(装飾された小屋)」の方を好むのは、明らかに後者のほうが “装飾という問題に対して、より簡単で安上がり、より直接的であり、基本的により正直なアプローチである。そうすることで、普通の建物を、普通に建てることができ、その記号的な要求に対して、より軽く巧みな仕上げで処理できる” (Denise Scott Brown and Robert Venturi: On Ducks and Decoration, Architecture Canada, October 1968, p.48.) からである。「現代建築理論序説」(ハリー・F・マルグレイヴ+デイヴィッド・グッドマン著, 澤岡清秀監訳, 鹿島出版会, 2018)のp.36を参照。