声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、アニメ、人文学等について書いている備忘録です。

SEPT8,2018_眼がスクリーンになるとき①

4日から6日にかけて日本建築学会大会が仙台であって、その後、東北の復興状況をみてまわろうということで、石巻、南三陸、気仙沼、陸前高田と北上している。いまは釜石で、明日東京へ戻る予定。その関係で色々ばたばたしていて、ブログが更新できなかった。

色々と考えることがあった。復興はたしかに進んでいる。着実に進んでいる。が、まだ全然終わっていない。その終わってなさを突きつけられ、その道中に北海道で大変な災害があり、呆然としている。写真を現像したら、ブログでアップして、道中考えたことを言語化することにしよう。その前にイタリアで撮った写真をまとめなきゃだけど。

 

移動時間等々で、福尾匠さんの著書『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社, 2018)を読みなおした。『シネマ』本編のほうにも(ざっとではあるけれど)目を通して、一読しただけでは曖昧だった理解が少し進んだ気がするので、個人的な感想をここに残しておこうと思う。10日にY-GSCにこの本の関連イベントを聞きにいくのだけど、それにむけて今日・明日くらいで感想をまとめておきたいところだ(ぼくは著者や制作者、設計者本人の解説とかを見聞きしてしまうと、それにものすごく引っ張られてしまうので、いまのうちに誤読している箇所も含めてアウトプットしておこうという魂胆だ)。

 

* * *

 

本書があつかうジル・ドゥルーズの『シネマ』という2巻の書物は、『シネマ1 運動イメージ』(Cinéma 1. L'Image-Mouvement) / 『シネマ2 時間イメージ』(Cinéma 2, L'Image-Temps)という名の通り、運動イメージと時間イメージというふたつの体制をかかえるものだ。本書でもたびたび指摘されるように、『シネマ』は数百本という映画をあつかい、それらを歴史的な時間の推移に沿って(一見すると極めてオーソドックスな映画史的枠組みで)書かれているので、しばしば目的論的な歴史感に縛られた書物であるという批判を浴びてきた。「これは映画史の研究ではない」*1という、冒頭の一文にもかかわらず、である。たとえば本書で応答が示されるのは、ランシエールによる「運動イメージと時間イメージが無限の循環のなかにあり、両者の体制の区別が、歴史あるいはアレゴリーに依存している」*2という問題提起だ。

映画的な、あるいは芸術的なイメージが、即自的に存在するもの(ピュシス=自然)でもあり、作家によって構築されるもの(テクネー=技術)でもあるというこのパラドックスは、ランシエールによれば芸術をめぐる思考における近代性を特徴づけるものである。*3

しかし、ここでわれわれが思い出さなければいけないのは、運動イメージでさえ映画の始まりにおいては存在せず、モンタージュや移動カメラなどの技術、そしてグリフィスやエイゼンシュテインという作家の登場を待たなければならなかった、という事実だ。そしてドゥルーズはこれに「生命はその始まりにおいては無機物を模倣せざるをえなかった」というベルクソンの議論を重ね合わせていたのであった。つまり、イメージがピュシスとしてもともと備えていたとされる性質は、テクネー(作家の技巧であり、制作を支えるテクノロジーでもある)によって遡行的に見出すことしかできない。ドゥルーズにとって映画史とはイメージのピュシスがテクネーによって自己差異化していく運動であったのだ。*4

ランシエールによる指摘は、映画のみならず他の諸芸術全般に響くような鋭い指摘だと思うのだけど、著者の解答は明瞭だ。ぼくにはここで端的に示される解答と、以下で引用するアラン・ロブ=グリエの記述はそう遠く内容に思える。

いったどうして芸術作品が、たとえどんな意味にしろ、前もって知られたなんらかの意味を、図解するのだなどと称することができるだろうか。現代小説は、はじめにわれわれもいったとおり、探求なのであるが、しかしそれは、自分の手で、だんだんと、自分自身の意味を創造していく探求である。*5

実際に映画は、だんだんと、新しさを獲得していった。がゆえに、『シネマ』における歴史と論述の圧着はひとつの切実な問題であることは間違いないのだけれど、本書はその点を十分に理解した上で、それでもなお、『シネマ』の歴史性を相対化し、『シネマ』においては通史的に検討されている「映画が喚起する諸概念」を鷲掴みにすること、すなわち『シネマ』が展開する映画をフッテージとした哲学的システムの本性をとりだし、著者独自の視点から彫琢することを試みている。そのためには、運動イメージと時間イメージを、歴史にも、アレゴリーにも依らないかたちで結びつける必要があるだろう。本書はこの難題を、「物の知覚」という概念の提示により突破する。

 

個別のトピックについての感想に移る前に、もう少し、全体を通したざっくりとした感想を書いておきたい。まず、副題の「ゼロ」という言葉に込められている意味について。この言葉は、本書が『シネマ』の入門書であって、ドゥルーズや映画理論についての前提知識を一切要求しない書籍である言明であると同時に、上記の「物の知覚」という、運動イメージと時間イメージの分化以前の演繹の零度を提示する書籍であるということを示している。後者は、本書の極めてラディカルな点だ。この二重性を、「一見すると入門風を装っておいて、そこには隠された意味があり、実際の内容は難解なのかな、、、」というようなかたちで理解してはいけない。そうではない。「入門向けである」ということと「ラディカルである」ということは矛盾しない。それらはむしろ同時なのだ。

眼がスクリーンになるとき、イメージがそれ以上でもそれ以下でもなく見たままで現れる。これが『シネマ』のゼロ地点であり、ゼロから読むという試みには、この地点がどのようなものであるかを見定めたうえで『シネマ』全体を見渡すという意味も込められている。*6

リテラルに、精神の介入なしに運動が「自動」でイメージ化されることは、映画のひとつの本質であるといえよう。それだけではなく、本書が取り扱う哲学者・ドゥルーズは、自身が「ごく素朴な観客」であることを強調し、「映っているもの / 背後の意味」という分割を信じず、映画を取り扱うにあたっては精神分析的なモデルも言語論的なモデルも採用しなかったという。また、ドゥルーズが依拠するベルクソンの「イメージ(イマージュ)」という概念も、「見たまま」の肯定ともいえるような哲学的態度だ。問題は一貫している。リテラルな、「見たまま」を徹底するという態度は本書の主調となっており、それは語り方と語られた内容の両面で(あるいは対象と形式の両面で)貫かれている。

この「見たまま」の全面化とでも言えるような姿勢は、『シネマ』の方法論であるだけでなく、哲学的な主題でもあるということだ。(……)『シネマ』はベルクソン論のアップデートを図った書物であるとも言える。どうして映画の哲学がベルクソンを必要とするのだろうか。それはまず第一に、ベルクソンが「運動」という概念を刷新した哲学者であること、そして第二に、彼が「イメージ」という概念を発明したことが理由となっている。*7

著者である福尾は、ドゥルーズとベルクソンの両者から「見たまま」という態度と方法を素朴に引き継ぐと同時に、それを過剰に推し進める(ドゥルーズがベルクソンに対しておこなったものと同型の手つきで、だ)。これはある種のフォルマリズムといえるかもしれない。「見たまま」のフラクタル。書かれている内容と方法は「見たまま」により貫かれ、それにより、(引用による組み立てにもかかわらず)語っている私と語られている私は自由間接話法的に連続し、引用符の外と内が曖昧になる。地層的な論述の明確さと、「私」の多重性の共存。それは純粋に「かたち」の、「フィギュール」の力だし、ある種の受動的な態度の徹底によるものだと、そんな印象をもった。

「見たまま」の全面化は、『シネマ』を「超越論的"ではない"経験論」として、あるいは言語論的なものが念入りに排除された、「非言語的な記号論の構築」のひとつの実践として読む道筋を与えてくれているように思う。また、本書はベルクソンに立脚したドゥルーズの議論を精密に追うわけだが、それは必ずしも、潜在性の海のなかですべてが前個体的に、連続的に浸かっているというようなホーリズム的帰結をもたらすものではない。むしろ「時間イメージ」について考察される本書後半においては、バラバラ・ズタズタの状態から、いかにして統一的なイメージ(あるいは身体)を事後的に、そして仮設的に構築しうるのか、という議論が主になってくる。

もうひとつ、ざっくりとした感想を付け加えておくと、本書での著者の手付きは、ベルクソンの減算的な知覚モデルから過去の知覚とその単なる応用・反復という要素を還元するカンタン・メイヤスーの手付きや、ハイデガーやフッサールが扱った議論から主観的な要素を薄め、対象を拡大解釈していくグレアム・ハーマンの手付きと、かなりリンクしているように思える。批判的であれ肯定的であれ、思弁的存在論の流れと、そこで各々が展開している相関主義批判の、その“以後”に書かれた本だなあ、という感じを強く受ける。

 

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で、気になった箇所を備忘録的にひいてまとめようかな、と思っているのだけど、これがかなり難しい。一応普段から読んだ本の感想をまとめるということはやっているつもりなのだけど、本書はとりわけむずかしい。なぜか。それはたぶん、本書がただでさえ分厚い二巻の書物を圧縮した書籍であると同時に、フックとなる語がリンクしあい、意味が折り込まれながら論述の前後関係を相対化するようなネットワークの網の目をつくっていること、かつ前述したベルクソン / ドゥルーズ / 福尾の識別が難しい局面があるということ、に由来しているだろう。感覚的なはなしになってしまうけれど、本書においてはベルクソンはベルクソンでなく、ドゥルーズはドゥルーズでなく、福尾は福尾でない、という感触がある。同時に、「さしあたり」の絶妙な介入によって全体は整序されてもいる。このバランスが面白い。


話題があっちゃこっちゃいっても仕方がないので、以下では、いくぶん個人的な興味にひきよせて論点を絞ることにしよう。ひとつは「物の知覚」に至る議論について。もうひとつは本書後半で展開される時間イメージ(とりわけ「偽なるものの力能」)について。

 


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ベルクソンが提示した「イメージ(イマージュ)」という概念は、観念論者による「表象」(精神のなかだけに存在するもの)と実在論者による「物」(表象の背後にある実在)の対立を乗り越えるため、「物質」に取って代わるものとして導入されたものだ。

ベルクソンは、見たままの対象の、見えたとおりの実在性、つまりリアリティを、それがまさにわれわれの頭のなかにではなく「そこ」にあることを認めるためにイメージという概念を考案した。つまるところあらゆるものがイメージであるということなのだが、ベルクソンはイメージには二種類のものがあると考えている。あらかじめそのふたつの呼び名を決めておくと、ひとつめは「死んだイメージ」、もうひとつは「生きたイメージ」であるということにしよう。*8

ここでは「死んだイメージ」が、計算可能な自然法則にしたがうような、私たちの通常認識しているような「物」を指すものであるとされる。作用と反作用は釣り合い、動きは予想することができる。一方の「生きたイメージ」は「私の身体(生物)」のことであり、ここでは作用と反作用が釣り合わない。一般に生物は、入力した運動を選択する力をもっており、身体が「不確定性の中心」としてはたらくからだ。ここで「生きたイメージ」が、すなわち身体が物と決定的に異なる根拠としてベルクソンが導入するのは「持続」と「記憶」という概念である。

少し踏み込んで考えてみよう。ベルクソンは「イメージ」という概念によって、目の前にある物質と私たちの知覚を一致させ、それによって「目の前にあるこれは、見える通りに存在している」という常識的な感覚を肯定する(常識的であると同時にかなりヤバイ、異常な感覚だとも思うわけだけど)。目の前の対象=物質と、それについての私の知覚が一致する局面を「イメージ」として位置づけることができる根拠はなんなのか。それは、生きたイメージにおいては、不在の対象にかかわる再現前化が「記憶」として、その対概念としてしっかりと位置づけられているからだ。目の前の対象についての「知覚」と、不在の対象にかかわる「記憶」。両者は固有の領分をもっており、そこには強度の差異ではなく本性上の差異がある。これはそもそもの、概念の定義上の問題といえそうだ。それゆえ、「物質=イメージ=知覚」と「記憶」は必ずセットで、相補的な概念として用いられる必要がある。とはいえ記憶が知覚に混入することは事実として避けられない気がするのだけど、しかしこれによって“権利上”は、物質=イメージ=知覚という局面が直接的な、純粋な知覚として想定できるということになる。

死んだイメージにおいて作用と反作用は釣り合っており、瞬間の連続として決定論的な時間が構築される。生きたイメージにおいて作用と反作用は不釣り合いであり、したがって選択がおこなわれ、予測不可能な厚みのある現在が構築される。そして後者の時間のあり方を持続、運動と呼び、ドゥルーズはこれを運動イメージという概念によって引き継いだ。*9

私たちは「死んだイメージ」によって、すなわち時間を空間化し点に還元することで対象を認識する。科学的な思考だ。一方で生命は厚みのある現在において持続している。両者はほんらい不可分であり、「ベルクソンは、認識批判をともなう生命の理論と生命の進化のなかに位置づけられる認識の理論の両立と、それらの循環が必要なのだと主張している」*10。本書ではここから、ベルクソンによる映画装置の批判、ドゥルーズが「映画的錯覚」と名づけなおした展開が紹介される。映画という装置は、厚みのある持続した時間をバラバラな静止画におきかえ、それを高速で連続させることで「運動一般」を抽出することであり、さらにそれは、「われわれに備わっている「内的な映画装置」によって対象の運動に尺度を与える」*11ことで、それらがあたかも運動しているような錯覚を与えるものだ、と。映画という「方法=装置」はまさに、「死んだイメージ」を高速でつなぎなおす営為であり、それは知性による科学的な時間の認識の仕方にもとづいて、「個別」を「一般」におきかえる。空間を介して、点をつなげることで間接的にしか、我々は「時間」を把握することができない。動かない切断面を差し込まないと、運動を再構成することができない。 人為的システムと自然的システムという正反対の傾向を考えるならば、止まっている写真を高速で連続させて動いているように見せる装置(映画的錯覚)はまさしく我々が知性によって時間を把握する認識プロセス(人為的システム)と同型であると。このようなベルクソンの認識に対するドゥルーズの応答はとてもおもしろい*12

手段が人為的であるということから、結果も人為的であると結論してしまってよいのだろうか。

(……)

要するに、運動があとからつけ加えられるようなイメージを映画が与えるということはないのであって、映画は直接に、ある運動イメージを与える。

(……)

映画の進化、すなわち、映画自身の本質あるいは新しさの獲得は、撮影を映写から切り離して解放することと、動くカメラと、モンダージュによって成し遂げられるだろう。そのときショットは空間的なカテゴリーであることをやめて、時間的なものに生成するだろう。そして切断面は動く切断面となり、もはや動かない切断面ではなくなるだろう。*13

ベルクソン的な態度による、ベルクソンの限界の乗り越えだ。動かない切断面でしかなかった映画が、技術的な制約から解放されることで、いかにして「死んだイメージ」に運動を与え、「人為的システム」において時間を表現するにいたったのか、という問いが、『シネマ』のひとつの骨格になっているのだろう。手段から結果への、装置からイメージへの議論のシフト。

 

ではそこでの、ドゥルーズが映画において見出した「運動イメージ」とは、どういった仕方で構成されるものなのだろうか、どういう分類が可能なのか、というところが、次の議論となる。

運動イメージの体制は大きく分けてふたつの側面を備えている。ひとつはフレーミング→ショット→モンダージュという、イメージの分節と総合にかかわる「分化(différenciation)」の側面であり、もうひとつは知覚・情動・行動などからなる「感覚-運動図式」という、イメージの諸々のタイプの構成にかかわる「種別化(spécification)」の側面である。前者は垂直的な過程であり、後者は水平的な過程であるとされる。運動イメージというシステムは、この直交するふたつの軸に沿って構築される。*14

『シネマ』は「分類学」として位置づけられているから、この部分はとうぜん、『シネマ』の核となる内容だ。この分類を軸に、映画作品の考察が次々と展開される。が、この場でその内容を薄く紹介することにはあまり意味がない気がするので、ここでは次の一節に注目するに留めておこう。

運動は、一方では、物あるいはその諸部分のあいだで起こるものであり、他方では、持続あるいは全体を表現するものである。*15

まず押さえておかなければならないのは、運動イメージの分化が、「総体(ensemble)」と「全体(tout)」という大きな概念的区別下支えされていることだ。ざっくりいえば、「総体」は人為的に閉じられたシステムであり、他方で「全体」とは、点に還元できない個別的な持続によって、「総体」を閉じるがままにさせず、開かれたものに結びつけるものであるという。そして「全体」は、「与えられる」のではなく「表現される」*16。この対を下敷きに、運動イメージの垂直的な過程はクリアに把握することができるようになる。フレーミング: 相対的に閉じられたシステムを規定するひとつの限定*17 / ショット: フレーミングの内部で展開される一定の持続をもったイメージ / モンタージュ: つなぎとつなぎ間違いを通しておこなわれる全体の規定、といったようなかたちで。ひとつの総体を与える「フレーミング」、(映画全体という)ひとつの全体を表現する「モンタージュ」、そしてその両者にまたがり、総体と全体をつなぐ蝶番としての役目を担う「ショット」。さきほどの引用部で指摘されていた「運動」はこの「ショット」と結びつけて理解することができるだろう。「運動=ショット」は「総体=フレーミング」の内部で部分的に生起するものであると同時に、モンタージュは「運動=ショット」を用いることで、映画の始めから終わりまでの「変化」を表現し、その作品における全体=持続そのものとして時間、を規定する。

 

つづいて「種別化」にかんして、これは「イメージが「感覚-運動図式(schéma sensori-moteur)に従って諸々のタイプを構成すること」*18であるという。『眼がスクリーンになるとき』では、『シネマ』で展開されるイメージの7つのタイプのうち、「知覚イメージ」、「情動イメージ」、「行動イメージ」、「関係イメージ」に焦点がしぼられ、議論が明確にされている。

知覚とはなんだろうか。ベルクソンは、事物による私たちの身体のフィルタリングと、じぶんの身体による事物のフィルタリングが私たちの知覚そのものであると規定する。知覚は何も創造しない。知覚はたんに、イメージの総体から、私の影響がおよばないあらゆるイメージを排除し、さらに残されたイメージから、身体の欲求に対して関わりをもたないことがらを排除する*19。「生きたイメージ」のところでふれられていたように、物質と生物は「不確定性の中心」という概念によって区別されていた。それはすなわち、知覚と行動の間に「間隔」が存在していて、この刺激に対する反応の「遅延」による可能な行動の選択の複雑性の有無、ということになるだろうか。意識の発生というのは、感覚と行動の間にあるこの遅さ、すなわちそこでの時間的な引き伸ばしに由来する(一方、物が意識をもたないのは、この時間的な引き伸ばしが最短であるためであって、両者は理念的な「瞬間」においては近似であると捉えられる)。

知覚イメージと時をおなじくして、行動イメージが種別化される。さらに両者の遅延=間隔の発生と、情動の発生もまた軌を一にしている。「痛み」のような情動は〈間隔を占めるもの〉であり(対して記憶イメージは〈間隔を満たす(remplir)〉と定義される)、

情動とは、身体のうちの、「開始されているが実行されていない運動」であるのだ。この運動は身体への外的刺激に対する「抵抗」である。というのも、外的刺激、つまり(知覚されるものをふくむ)身体の外側にひろがるイメージに晒されて、身体はつねに「分解(désagréger)」してしまうおそれがるからだ。情動はこの分解に対する抵抗であり、だからこそ「身体は闘うものである」と言われる。この抵抗は、「隔たり(écart)の発生によって知覚の面と行動の面へと「引き離された(écartelée)」イメージの結びつきを回復し、不確定性の中心としての身体を保持する役割を担っている。*20

私たちは知覚のはたらきによって、対象の総体から、それらに対して私の身体がはたらきかける、可能な行動を際だたせている。イメージの総体のなかで、私たちの身体は、知覚される限られた領域を切り開き、同時に情動によって、可能な行動を選択する。そして知覚の拡がりという地のうえに、行動の対象という図が浮かび上がることで、知覚できない「外部」も同時に感じ取っている。私の身体を同心円の中心においた、行動に要する時間と空間によって秩序付けられた時空間の構造。このとき、私たちの身体は「行動のための道具」であり、「私に作用する事物と私が作用する事物とのあいだの連結線」であり、「感覚 - 運動現象が生じる座」となる。


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*1:ジル・ドゥルーズ: シネマ1 * 運動イメージ, 財津理・齋藤範訳, 法政大学出版局, 2008 (1983), p.1.

*2:Ibid., p.116.

*3:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.111.

*4:Ibid., p.117.

*5:アラン・ロブ=グリエ: 新しい小説のために, 平岡篤頼訳, 新潮社, 1967, p.159.

*6:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.6.

*7:Ibid., pp.25-26.

*8:Ibid., pp.28-29.

*9:Ibid., p.34.

*10:Ibid., p.39.

*11:Ibid., p.43.

*12:ちなみに『シネマ』から引用する場合、基本的には福尾さんによる訳を用いる。こちらの方が圧倒的にわかりやすい訳だとおもうので、、。『眼がスクリーンになるとき』で引用されてない部分を扱う場合は、邦訳版の訳を用いる

*13:ジル・ドゥルーズ: シネマ1 * 運動イメージ, 財津理・齋藤範訳, 法政大学出版局, 2008 (1983), pp.5-7.

*14:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, pp.52-53.

*15:ジル・ドゥルーズ: シネマ1 * 運動イメージ, 財津理・齋藤範訳, 法政大学出版局, 2008 (1983), pp.21-22.

*16:ここで用いられている「表現(expression)」という語は、何を意味しているのだろうか。これに関してはまた別の機会に考察する。

*17:《フレーミングは、飽和への傾向と希薄化への傾向をもつ。と同時に、フレーミングの内部には多くの異なった第2第3のフレーム(ドア、窓、車、鏡…)があり、「閉じられた総体つまりシステムの諸部分は、そうしたフレームどうしの入れ子によってこそ、互いに分離し、またそればかりでなく協同し、再結合するのである。》(Ibid., p.27.)

*18:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.68.

*19:ベルクソンの減算的な知覚のモデルについて、メイヤスーは『減算と縮約』で以下のように記述している。

《生成がある。そして、この生成とは、諸々の流動とそれらの遮断のことである。この言明はつまり、生成を構成するのには流動だけでは十分ではなく、遮断もまた必要であるということを述べている。(……)流動は、それだけでは、そうした純粋な動性であって、いかなる障害もその展開を妨げることはないという事実そのものによって、自らを不動化してしまう。要するに、流動とは、普遍法則に支配されたあらゆる事物の間の紐帯なのである。  生成があるためには、何かが起こらなければならず、何かが起こる(se passer)ためには、何かが過ぎ去る(passer)だけでは十分ではないーー反対に、何かが過ぎ去らないことが必要である。つまり、切断(déconnexions)が必要である。これが、物質以外の何かを導入することなく、物質の内へと生成を導入する唯一の方法であり、こうすることによってのみ、我々は、ドゥルーズの「魔術的公式」すなわち「多元論=一元論」を維持することができる。異質な物質の一元論は、それ自身の内に、物質以外の何かを受け入れることなくーー存在論的な二元性を導入することなくーー出来事性(événementialité)の多元論を受け容れるのである。(カンタン・メイヤスー: 亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―, 青土社, 2018, pp.240-241.)

*20:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.78.