声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

SEPT.18,2018_眼がスクリーンになるとき②

前回からの続き。

www.ohmura-takahiro.com

 

* * *


前回は「感覚-運動系」の大枠を「知覚-情動-行動」という図式で確認したが、ドゥルーズこの図式をC.S.パースの記号論と結びつける。

パースは、彼が「現れ(phaneron)と呼ぶ、心に対して現れるもののすべてを分類するためのカテゴリーを考案した。ドゥルーズはそのうち、もっとも基底的である「一次性(firstness, priméité)」、「二次性(secondness, secondéité)」、そして「三次性(thirdness, tiercéité)」の区別を、それぞれ情動イメージ、行動イメージ、関係イメージに対応させている。*1

本書はここから、運動イメージ(および時間イメージ)の原初的な境位として、上記の議論に対応する「零次性」としての知覚イメージを考察していく。

われわれすでに情動イメージに「一次性」、行動イメージに「二次性」、関係イメージに「三次性」という規定が割り振られていることを見ているが、「零次性」という語は『シネマ2』第二章においてドゥルーズが運動イメージの構成を取り上げなおすときに唐突に登場するものであり、パースの考案した三区分にドゥルーズが独自につけ足したものだ。*2

運動イメージのゼロ地点にある知覚イメージには、端的にふたつの側面がある。一方は不確定性の中心として作用と反作用の蝶番となる「運動の間隔」を構成する側面であり、他方は知覚イメージが運動それ自体と厳密に同一となる側面だ。前者は「生きたイメージ」を構成し、「主観性の物質的アスペクト」となる一方で、後者は種別化以前の、「イメージ=運動」となる局面での知覚となる。

この知覚の二重性は、「知覚は運動に一致するか間隔に一致するかに応じて、ふたつの極をもつ」というかたちで規定される。運動に一致する知覚とは、すべてのイメージがたがいに作用を及ぼし反作用を返す物質的な宇宙、つまり彼が『シネマ1』で《イメージ=運動》と呼んだような境位にある知覚であるとされる。つまり運動=イメージ=知覚という水準が規定されているのであり、それとはべつに、種別化が駆動される間隔としての知覚があるということだ。(……)一方は運動と一致する知覚であり、他方は運動の間隔と一致する知覚である。実のところほかのタイプのイメージへと「繰り延べられ」、諸々の運動イメージのタイプを構成するのはこの後者の極にあたる知覚だけであるだろう。そこでこの知覚を「感覚-運動的な知覚」と呼ぶことにする。これは行動へと繰り延べられる限りでの「特殊な知覚」であり、「可能的な行動のデッサン」を描く。前者の運動、つまりイメージそれ自体と厳密に同一である知覚を「物の知覚」と呼ぶことにしよう。*3

本書の鍵となる箇所かと思う。「感覚-運動的な知覚」とは、つまりは「この私の知覚」ということになろう(そこでは「引き算」による不確定性の中心の発生があり、さらには無数の瞬間の「縮約」がなされている)。一方「物の知覚」とは、「ここ」ではなく物の側にある知覚ということになる。主観性を欠いた、オブジェクトとしての知覚が、私の身体の外部に存在すると。本当だろうか。後者はベルクソンの「知覚の起点そのものを、対象が存在する場所に定位する」*4というアイデアを前提とするものだ。

容易には同意しかねるこの点に関しては、本書で取り上げられている岡嶋隆佑の論文「ベルクソンにおける知覚の諸相」が参考になる。この論文はとても面白くて(難しいのだけれど)、「知覚はつねにモノの側にある」ということを「常識的である」といいきってしまうようなベルクソンの「異常さ」もとい「異常知覚」を解明するため、それを知覚と情動の結びつきによる「ここ」の位置問題として整理し、「俯瞰」「没入」「拡散」という3パタンに分類する。「俯瞰」は「ここ」が私の身体の位置とずれ、私の身体の上部に浮上するような局面であり、「没入」は私の身体とある特定の対象との距離が限りなくゼロに近づくような局面、そして「拡散」は「没入」にみられる対象との距離がゼロとなる知覚が、他のあらゆる対象へと差し向けられるような局面だ。無論、問題となるのは最後の「拡散」的な知覚であるということになるのだけれど、「俯瞰」→「没入」→「拡散」と順を追って説明してもらえると、ある程度理解できるような気がしてくる。通常の、健全な知覚においては、知覚と情動および記憶の結びつきは不可分であるが、ある異常な精神状態においては、それはずれうると。そう考えると、権利上は、知覚を物の側に置くことにも納得できる。岡嶋論文の結論部を確認してみよう。

知覚と情動という二つのシステムの重なりには、程度があり、あるときには二つの系の原点にズレが生じたり(俯瞰)、またあるときには一方が他方から完全に切り離されてしまうことといったことも起こりうる(没入、拡散)。だから、情動は、知覚の可能性の条件ではあり得ない。(……)ベルクソンは、カント的な空間概念を、本稿が行動空間と呼んだものに書き換えたのである。このことによって、「私たちは、ある程度まで、拡がりから離れることなく空間から抜け出ることができる」ようになる。ある程度まで、というのは、たとえ行動の空間を排除したとしても、知覚そのものが、物質から切り取られるひとつの平面であるために、その中心に据えられた身体という視点に相対的な側面を持っているからである。ただし、このいわば準-純粋知覚(quasi-pure perception)とでもいうべき状態においては、時間的距離はもちろん、知覚される対象の馴染み深さ、さらには身体に対する諸対象の方向付けに至るまで、行動空間に由来するものが一切欠けている。*5

対象の位置と知覚の位置の一致し、対象と「ここ」の距離がゼロであるような局面が周囲のあらゆるオブジェクトに拡散するとき、すなわち、拠点としての「ここ」なしの知覚がたんに存在するとき、知覚と情動は完全に切り離されている。ここで展開されるのは、知覚的な拡がりが先にあって、自己中心的な「ここ」は事後的に獲得されるものである、という世界観だと思うのだけど、とはいえ岡嶋は「準 [quasi]」を付し、知覚と記憶の事実的な分離については留保をおこなっている。

情動を含まないが、(感覚質の凝縮にかかわる)記憶を含むという意味でこの語を用いている。なお、「ほとんど瞬間的な(quasi-instantané)」という表現が、一定の持続の厚みを含意し、その意味で凝縮としての記憶を含意することに注意されたい。*6

ここでの岡嶋の分析とは明らかに異なる展開が、『シネマ』ないし『眼がスクリーンなるとき』ではなされている、ように思った。本書で定義される「物の知覚」はどう考えても「準-純粋知覚」ではなく「純粋知覚」の事実化の方に向かっている気がして、岡嶋が「準 [quasi]」を付す根拠となっている「記憶」ですらも削ぎ落とされる議論が展開されているように読める(方法は違えど、メイヤスーが『減算と縮約』で展開する議論もそうである)。この点はおそらく(『シネマ』のほうにも目を通してみたけど)、ドゥルーズ自身は直接的にはいってなような部分であるような気がする。ひとまず『眼がスクリーンになるとき』の記述を確認していこう。

さて、まことに奇妙なのは、ドゥルーズが導入した感覚-運動的な知覚の外にある物の知覚が、ある一点においてベルクソン的な純粋知覚と決定的に異なっているように思われることだ。それは、ベルクソンの純粋知覚が物質=イメージ=知覚という一致が成り立つ権利上の審級として想定されたものであったのに対して、ドゥルーズの物の知覚は、物資=イメージ=知覚=運動というひとつ項の多い一致を想定しており、それをある種の映画的な「事実」として措定しているということだ。*7

ドゥルーズの議論がベルクソンをはみ出す明確な論点が2点出てきている。⒈ 純粋知覚への「運動」の付け足し、⒉ その事実化。まず1点目に関して、著者によればこの点は、ドゥルーズによる『物質と宇宙』と『創造的進化』のある種の短絡に由来するものだという。『物質と記憶』においては、物質=イメージ=知覚という純粋知覚が権利上想定されていた(事実的には「準-純粋知覚」として)。ドゥルーズはここに、『創造的進化』における「宇宙は持続する」(物質も最小限の持続をそなえたものである)というアイデアを密輸入させている、と*8。後者においては「人為的システム」と「自然的システム」(あるいは「総体」と「全体」)はあくまで「傾向」の差異として措定されるが、「ドゥルーズはふたつの傾向の「循環的過程」を描き出すことより、人為的システムを純粋に認識論的な誤りとして切り捨て、持続の全体化図ることに専心しているように見える」*9。なるほどそう読めば、『シネマ』をぐっと理解しやすくなる気がする。あらゆる物質は持続しており、宇宙は複数の中心に満ち溢れていて、穴=不確定性だらけである(そして穴=不確定性は持続=運動であるがゆえに絶対に分割不可能な「底なしの穴」である)。そんな、ベルクソンをはみだすような汎心論的、物活論的帰結。2点目の事実化問題は、この帰結と連続する問題意識だ。

非中心化された知覚に満たされた持続する宇宙。ドゥルーズ的な「物の知覚」はこのように定式化することができるだろう。これは『物質と記憶』において「権利上」のものとして想定された純粋知覚を、映画というフッテージに流し込むことで映画的な事実としてあるかうことへとつながっているように見える。*10 

映画からく汲み上げられる概念は、人間の身体からは遠く離れたものになるだろう。人間的な経験ではありえないことが映画ではおこる。モンタージュによって異なる時間や空間が容易に結びつくように、映画的知覚にはそもそも中心となる身体が存在しないのだ。

このような脱中心化する知覚を極限まで推し進めるとき、映画は「中心なき物の状態に向って遡る」。(……)ベルクソンが物=知覚という権利上の想定から始めて事実としての身体を演繹したのに対して、映画をフッテージにする『シネマ』は、経験的な身体の演繹にかかずらう必要がなく、事実としてあつかいうる圏域は拡張される。*11

ドゥルーズによる「物質=イメージ=知覚=運動」の「事実化」は、ジガ・ヴェルトフの「映画-眼(ciné-œil)」と「感覚の理論」というアイデアを前提にしているという。非-人間的な映画-眼の純然たるヴィジョンはそれ自体運動をもたらすもので、物の知覚をになう。それは「表現される」ものである一方で、「構築される」ものでもある。端的に、映画=フィルムはモノであるというところから、「持続はその映画を人間が見ることで構築されるのだ」とつい導いてしまいそうなのだけど(それもまた事実なのだが)、いやいや映画=フィルムにはそもそも「運動」が与えられているでしょう、と切り返すこともできる。このとき必要なのは、「運動=持続」を大きく取り上げ、概念化してあげることであり、『シネマ』ではまさにその作業が進められるということなのだろう。

『物質と宇宙』においては、中心をもたない確定的な宇宙から中心化による不確定性のシステムとしての感覚-運動系を演繹することが問題であったのに対して、『シネマ』はすでに不確定性の感覚に満たされた宇宙から、その不確定性を一定のしかたで馴化するシステムとしての感覚-運動系を演繹することを問題にしている。*12

すでにバラバラ・ズタズタで隙間だらけの、無数の知覚に満たされた宇宙がある。そこから私の身体と「ここ」を一致させる感覚-運動的な知覚を演繹する"健全な解答"がひとまず導出しうるわけだけど、しかしそこには、もうひとつのシステムーー時間イメージ的な体制ーーへの分化が可能性として残されている。しかして「物の知覚」を、ぼくらが直接的に知覚できてしまえたとすると、狂ってしまう気がする。だからこそ、「感覚-運動系は、つまるところ物の知覚を馴化するものとして要請されている」*13。物の知覚をうけとめるとき、ぼくらは対象との距離をうまく計測することができなくなるだろう(距離を測るのは情動の機能だ)。フィルターがはずれた世界はあまりにも眩しい。日常的な知覚経験からは大きくはなれ、私は不動の見者となり、精神をもたないたんなる物質へと近づく。人間から動物へ、動物からたんなる石へ。

〈感覚-運動的な知覚=状況〉と対立する〈物の知覚=純粋に光学的で音声的な状況〉があり、運動イメージにおいては後者が前者へと不可逆的に限定され、時間イメージにおいては後者がそのままで固有の価値をもつという図式が敷かれていると考えられる。*14

運動イメージにおいては、人物が世界にはたらきかけ、世界が人物にはたらきかけるが、そのとき観客は人物に同一化し、その世界に参加する。時間イメージにおいては、世界にはたらきかけるにはあまりにも「耐えがたい」、あるいは「凡庸な」ものであり、人物は座席に身を沈ませる観客のほうへと、文字どおりのレベルで同一化する。(……)知覚はもはや行動へと繰り延べられず、世界への関与可能性を失った人物は「見者(voyant)」になる。*15

眼がスクリーンになるとき、私たちの眼は「引き算しない身体」となり、純粋知覚をそのままうけとめる。運動イメージ的な体制が、結局はファシズムやプロパガンダに回収されてしまったものなのだとすれば、その後に展開した現代映画は、映画の亡霊であった(映画に権利的に与えられていた)直接的な時間イメージに身体を与えることとなった、と。感覚-運動図式が阻止され危機的な状況に陥ったとき、純粋な光学的-音声的イメージが、「隠喩なしの十全なイメージ」が、善でも悪でもない「物」として出現する。私たちはそれを「読まれ」うるものとして受け止める。*16


* * *


ドゥルーズが事実として映画に埋め込んだ「持続=運動」が、「時間」と対置される理由はなんだろう。それは先ほどちらっと書いた「準」問題(純粋知覚の事実化、つまりは記憶の扱いについて)とも関連する問題だ。「時間」と「運動」が互いに互いの尺度とならないような局面は、どういった条件で成立するのか。

「運動」と「時間」、両者をまたぐのは「結晶イメージ」であり、本書では「現働的なものと潜在的なものの識別不可能性」とまとめられている*17。運動イメージにおいては作用と反作用の「蝶番」となる間隔が存在しているわけだけど、時間イメージにおいてはその「蝶番」が故障しており、行き場を失った運動が肥大化した蝶番へと流れ込む(かなり適当な印象なので全然あてにならないのだけど、「結晶イメージ」という語が指示する内容としてぼくが想像していたのは、そうした「壊れた蝶番の凝視」のようなものだった)。つなぎ間違い=運動の逸脱によって、時間は運動への従属的関係から解放され、直接的に現前する。健全な運動の連鎖を保証する「蝶番」がこわれるとき、知覚と情動は運動イメージ的な「繰り延べ」とは別のかたちで再編成されることになる。

逸脱した運動があらわにするのは時間であり、それは全体としての、「無限の開かれ」としての時間であり、身体的運動性によって定義されるあらゆる標準的運動に先行するじかんなのである。(……)標準的運動が時間を従属させ、時間の間接的表象を与えるとするならば、逸脱した運動は、時間を直接的に現前させ、尺度の不均衡、中心の散逸、イメージそのものの誤ったつなぎの深みから、時間の先行性を証している。*18

『シネマ2』でとりあげられる「記憶イメージ」は、純粋記憶とは区別され、目の前にある状況のために現働化された「不純な」記憶として位置づけられる。一方で「結晶イメージ」は「記憶の混乱」によって惹起されるイメージであり、現働的であると同時に潜在的でもある両面的なイメージとして位置づけられる。

現働的なものは同じ関係のもとで潜在的になる。それらは完全に反転可能な表と裏なのだ。それらはバシュラールのいう「相互的イメージ」であり、そこでは交換が行われる。現実的なものと想像的なもの、現在と過去、現働的なものと潜在的なものとの識別不可能性は、したがって頭や精神のうちに生じるものでは決してなく、本性によって二重性を帯びて実在するある種のイメージの客観的性格なのだ。*19

結晶イメージにおける潜在的なもの=記憶は、「何かの目的のために現働化されるのではなく、現働的なイメージと「対応する(correspondre)」」*20のであり、コインの表と裏が混ざり合うことは決してない。記憶イメージとの相違はこの点(混ざり合わないこと)であり、表と裏は明確に区別されているがゆえに、両者はどちらか言い当てることができないような、識別不可能な関係に入ることができる。区別はできるが識別ができない。知覚と記憶の識別不可能性としての結晶イメージ。ここでは、記憶が現働的なものとして噴出しうる。ドゥルーズがここで前提としているのは、ベルクソンの「記憶と知覚は同時である」というアイデアだ。

「見て」から「憶える」までのあいだのその情報を保持しておく機能を、記憶と呼ばずして何と呼べばいいのだろうか、と。このタイムラグのあいだに保持される情報を記憶と呼ばないのであれば、見たそばからすべてを忘れているはずだろう。(……)だからこそ論理的に考えて、知覚と記憶は厳密に同時に形成されるべきだ。この知覚と厳密に同時である記憶を、ベルクソンは「現在の記憶」と呼ぶ。あらゆる知覚には、それとまったくおなじ姿をした記憶が、鏡の裏箔のように共存している。*21

ベルクソンによれば、デジャヴュ=既視感とは、現在知覚しているものを知覚しながら思い出していることである。このデジャヴュ的な感覚はある特定の条件下で露わになる「時間の隠された基礎」であり、この知覚と記憶の識別不可能な状態から、「移行する現在」と「保存される過去」は分化するのだ。

ベルクソンによれば記憶は、「その主観的な性格を知覚に伝達するもの」であり、「権利上われわれは物質をそれ自身のうちで知覚するのにもかかわらず、事実上はそれを自分のうちで知覚する」のは、記憶のこの機能による。つまり、知覚を脳の内部に置く実在論者の議論は、事実あるいは経験における知覚の内部性を、権利へと無自覚に敷衍することによってなされるものである。(……)したがってわれわれの経験的な知覚の座である感覚-運動系の構成のバックグラウンドでは、つねに記憶が作動していることが前提とされている。*22

記憶の即時性、何ものにも依存せず独立しておこなわれる過去の保存は、権利上は物質と一致するまでに拡散する純粋知覚を、中心化するものとして要請される。(……)記憶が精神の実在である以上、物質的な対象である脳がそれを保存することはできない。*23

「結晶イメージ」は時間イメージの「広い意味での用法」*24に位置するが、ここでは依然として記憶と知覚は表裏一体となっている。ここで事実化されているのはあくまで「準-純粋知覚」だ。

物の知覚=純粋知覚とは、瞬間において生起するのであり、ゆえにそれを受け止めるということは、瞬間に持続を導入するということを意味している。先ほどの議論を振り返ると、ドゥルーズは『物質と記憶』と『創造的進化』を短絡およびヴェルトフによる「間隔の理論」の引き継ぎを通して、純粋知覚への「運動=持続」の追加を"映画的な事実"とみなしていた(さらにそこでは「イメージの総体」が、ベルクソンがいうような「ひとつの動的連続体」ではなく、穴=不確定性だらけのものとみなされていたことも思い出そう)。ここまではいいだろう。問題は、純粋知覚は記憶を欠いた精神であるわけだから、それを十全に受け止めるということは、運動=持続を含み込んだ映画的な純粋知覚を"記憶を削ぎ落としたまま"で知覚しうるか、ということになろう。凝縮としての記憶を含意しない持続は可能か。

記憶を知覚の対応物として含意する結晶イメージから、議論は「直接的な時間イメージ」へと向かう。


* * *


直接的な時間イメージは3つのタイプ(1: 過去の諸層の共存 / 2: 現在の諸先端の同時性 / 3: 生成)に分類することができ、さらにそれらは「時間の秩序」を構成するもの(第1 / 第2の時間イメージ)と「時間の系列」を構成するもの(第3の時間イメージ)に分別できるという。「記憶」に決着がつけられるのは、第1、2の時間イメージにおいてである(これらの導出と同時であるというべきか)。が、それは単なるカオスへ、無限の断片化へ陥ってしまう危険とも隣り合わせなのである。

まずは「時間の秩序」について、「記憶」が、結晶イメージから「過去の諸相」へと流れ込むところから確認していこう。ドゥルーズは、潜在的な過去のなかに身を置く「想起」のはたらきに注目し、われわれは「どこに」記憶イメージを探し求めるのだろうかと問う。そこでは純粋知覚と純粋記憶が重ね合わせて考えられているという。

記憶が即時に保存される精神的なものである限りにおいて、それは空間的な存在ではなく、したがってそれが「どこに」あるのか、「どこに」保存されているのかという問いは、ベルクソンにとっては擬似問題であった。したがって「現在から身を引き剥がす」あるいは「記憶のなかに身を置く」というのは、少なくとも彼にとっては「もののたとえ」であり、フィギュラティヴな表現であるだろう。しかしドゥルーズはこうした表現を文字通り(リテラル)に受け取ることによって、純粋知覚と純粋記憶の外在性を等置し、潜在的な帯域にイメージという空間的な身分を与えているように見える。*25

結果として、ベルクソンの「記憶の逆円錐」と呼ばれるあの有名なダイアグラムは、「リテラルに脳であり、地層であり、さまざまな射影に横切られる幾何学的な対象」*26となる。

「過去の諸相は存在する」。しかしもはや、「それらを引き受ける現在がない」。特権的な現在を構成する感覚-運動的な中心はもはやなく、「石化」した「見者」は、もはや「運動の間隔にしか存在しない」。このとき円錐の頂点、つまり記憶の「もっとも縮約された領域」は、感覚-運動的な身体から「絶え間ない現在としての死」へとその意味を変える。「固定点としての死」となった現在は、もはや想起の拠点としてすら機能しなくなる。*27

第二の時間イメージはここから類推される。現働性から解放された複数の現在を同時に俯瞰すること。

ドゥルーズは、現在を脱現働化し唯一の同じ出来事に身を置くならば、「出来事はもはやその場所となる空間とも移行する現働的な現在とも混同され」ず、「区別される諸々の現在の明示的な移行にしたがう、継起的な未来、現在、過去はもはや存在しない」と述べる。(……)ひとつの出来事のなかに折り込まれるのは「未来の現在、現在の現在、過去の現在」であり、これら三つの折り込まれた現在は同時であり、「現在の諸先端の同時性」とはこのことを指している。*28

上記のふたつの時間イメージは、字面だけ追うとかなりぶっ飛んでいるような感じがするけれど、いずれも映画であれば可能なものだ(むしろ映画的な表現として受け取る分には、わりあい素直に受け入れられる類のものだろう)。ドゥルーズが発明した、逆円錐のダイアグラムのリテラルな読解による実体化・空間化は、われわれの「記憶力」が担っていた機能に致死的な変形を与えるものであるけれど、映画的な世界におけるリアリティを見事に表現している、と思う(そういう映画を評価する際の基準たりうる、というような)。

現在=円錐の先端は「固定点としての死」へと変質し、すべての記憶がそこで戯れる「夢の平面」であった円錐の底面は、記憶が退廃していく「地層化されざる実体」へと変質する。それとともに、記憶の座となった「脳」はすぐさま「数々の小さな脳死」に満たされ、必ずしも正しくない記憶の混入した諸々の「感情」のあいだで、行動の決定の器官としての機能を喪失する。*29

さて、「純粋知覚」と「準-純粋知覚」を分かつのは、「感覚質の凝縮にかかわる記憶」の有無であった。『眼がスクリーンになるとき』とある種の鏡像的な関係にあるメイヤスーの『減算と縮約』について少し触れてみよう。メイヤスーは純粋知覚論を展開するために、ベルクソンにおける「想起としての記憶」と「縮約としての記憶」のうち、前者は保持する一方で後者は徹底して批判したうえで完全にオミットし*30、縮約なしの減算理論を組み立てる。即時的な物質=イメージの知覚(純粋知覚の事実化)の回路を、"消去主義"的に導出するわけだ。ドゥルーズ=福尾の議論はどうだったか。『眼がスクリーンになるとき』においては、映画的な事実に即して考えるならば、時間イメージ的な体制において、想起と縮約の両方が致死的な変形にさらされていた。縮約をになう「記憶のもっとも縮約された領域」は退廃し、「現在」は複数化し、記憶は偽記憶に置き換えられる。後者において、記憶がこのような致死性の変形をこうむったのは、「物の知覚」という物活論的な視点によってである。私の身体が「生きたイメージ」であり、事物が「死んだイメージ」であるという議論をまるまる反転させることで、記憶は私の側から削ぎ落とされる。

スティーヴン・シャヴィロがいうような、思弁的実在論における消去主義 / 汎心論というふたつの傾向に、メイヤスーとドゥルーズ=福尾を重ね合わせることは誤読だろうか*31。いや、こうした対比をことさら強調することは意味のないことかもしれない。思議すべきは、両者の方法上の差異が、どういった帰結の差異をもたらすのかということだろう。ドゥルーズがイメージと運動を同一視したことと、福尾が「物の知覚」を運動イメージと時間イメージの零度として位置づけて『シネマ』を整序したモチベーションは、「たんに映画が事実としてそうだから」ということだけではなく、上記の「私=死んだイメージ」的状況からの復活に向けて、『生成』の方法をより具体的なしかたで(非言語的な記号の体系として)表現するためにあったのだろう、と、読んでいてそう思った。メイヤスーも「発明し、創造する以上、ひとはカオスへと向かうのであるが、カオスと実際に合流すること以上に忌避されることは何もない。ここに示されたモデルは、傾向的でありながら同時に反統制的である。というのも、創造する傾向を支配するカオスへとたえず接近しなければならないのと同時に、自分がカオスへ陥ってしまうことを絶えず防がなければならないからである。」*32と書いていて、同一の問題意識を共有していることはわかるのだけど、いやぁメイヤスーの理論では手は動かんでしょう、とぼくは思ってしまう(ぼくにとってはデリダもそうなのだけど)。手が動くかどうか、という審級を、ドゥルーズ=福尾は手放していないように思う。再び手を動かすための、制作へと折り返していくための、できるだけ具体的な(そしてできれば便利な)道具を用意すること。それは『シネマ』あるいは『眼がスクリーンになるとき』を"フッテージ"としようとする未来の誰かを励ますだろう。「運動」を基底に置くことは、方法論的に重要な価値をもっている。

感覚-運動系の紐帯が引き裂かれ、健全な記憶のシステムが跡形もなく始末されるあかつきに、私たちは思考は根源的な無力と、世界への「信」の喪失に直面する。「際限なき断片化」*33。とはいえ、そんな破壊的な映画=世界と向き合うのはあまりにもつらい。たぶんぼくは耐えきれず、劇場で眠るだろう(げんにぼくはゴダールの映画は見ていて寝がちなのだが、、*34)。端的な〈外〉にさらされ断片化したひとつひとつのイメージを再連鎖させる可能性は、「思考の不可能性を思考に固有の力能にする信の可能性に賭けられている」*35。人間と世界の絆が断たれた私たちは、各々のしかたで世界への信を取り戻さないといけない。そのとき信じるに足るのは、文字通りに語られ、リテラルに見えるものだけだろう。私たちはそこで「絶対的な価値を獲得し、あらゆる連合作用をそれ自身にしたがわせる切断」*36をいったん受け入れ、それがもたらすひとつの(あるいは複数の)「場合」に対して、仮設の定理を、場当たり的な秩序を、ひとまず選択する*37。この備忘録はあくまで「物の知覚」の導出までの議論について、自分の理解の痕跡のこしておこうと思って書き始めたのだけど、いつのまにかここまで来てしまった。本書最終章の議論はめちゃエキサイティングなのだけど、ぼくの個人的な理解では、この箇所を正確にまとめることはできない気がする*38。概要にだけふれていくこととしよう。

 

第3の時間イメージ、「生成」においては、瞬間そのもののなかに「持続する間隔」を導入するというパラドクスが要請される(そしてそのとき、「だから、私に身体を与えてください」と言われる)*39。このパラドクスが、個人的には最初読んだときには理解がかなり難しかったところだ。しばらく「うーん」と考えていたのだけど、この部分はむしろ「持続を瞬間に凝縮する」というところから考えればいいのか、と、自分のなかではひとまず理解した。映画が物質=イメージ=知覚=運動であり、持続する対象であるならば、「瞬間」は権利上こちらの側に、石化した鑑賞者の側にあるはずだ。物活論的な有機物としての事物に、無機物としての私が出会う。上記のパラドクスは、このような奇妙な反転現象を表現する。

第1と第2の直接的な時間イメージにおいて、「記憶」は致死的な変形をこうむっており、ここでは「想起」も「縮約」もまともに機能するはずがないように思えた。眼がスクリーンとなり、石化した身体をもつ私が、持続する「物の知覚」を「瞬間」に押し込めること。ここでの「瞬間化」が意味するのは、「縮約」の、まったく別の姿での回帰であるように思える(そしてこの瞬間においてこそ、複数化する現在を同時に受け止めたり、過去の諸相をいったりきたりすることができると)。瞬間のなかで氷漬けにされたこの地点から復活し、再び持続するために、私は身体を欲する。

身体の態度は、以前と以後を内包しているが、かといって現在にあるわけでもない。感覚-運動的な現在の継起から剥がれ落ちたあとで、それでも際限なき断片化へとほどけてゆくことに抗うために、身体を与えることが要請される。そしてこれは同時に、時間イメージ的な思考が作動することの条件でもある。(……)身体は思考の障害ではなく思考のためのカテゴリーとなる。「思考することを強いる」のは、もはや運動イメージにおいてそうであったように神経系を貫く衝撃ではなく、「思考しないもの」としての身体だ。思考の障害であった睡眠や酩酊、疲労や絶望といった身体の態度は思考されるべきカテゴリーへと反転する。*40

感覚-運動系の紐帯の断絶の先に残された、石化した身体に身体性が注ぎ込まれる。与えられた新たな身体により、「固定点としての死」のなかの私は再び持続し、生き延びる。脱連鎖-再連鎖を経ることで可能となるのは、身体の諸々のカテゴリー(睡眠、酩酊、男、女、疲労、神経症、子供、老人、努力、抵抗、、、)の自由な行き来である、と。身体のゲストゥス(態度・姿勢)。与えなおされた身体は「組立」の単位となり、連鎖や合成の材料となって、それらの移行や干渉、衝突によって(すなわち具体的な操作によって)「重ね合わせの空間」をつくる。

 

「偽なるものの力能」について。脱連鎖(=否定的な契機)を経由することで、視覚的なものと音声的なものは互いに自律性を獲得し、底なしの間隙に引き裂かれたイメージの断片(光記号・音記号)は「構成材」として「情報のテーブル」*41にひろげられる。私たちはそこで、「組立」あるいは「演算」をおこなうだろう。前-言語的な説話の演算。物語は必然的に複数的なものとなり、新たな様式を獲得する。うんうん、ぼくもそういう建築が作りたいんだよなぁ、、と謎の納得感を感じながら読む。時間イメージにおいては真実は創作の対象になり、偽は力をもつ。

偽なるものの力能をめぐる議論は、「描写(description)」、「説話(narration)」、「物語(récit)」という三つの物語論的な位相を腑分けしたうえで、それぞれにおける運動イメージとの差異を通して展開される。(……)描写は結晶イメージに対応し、説話は時間の秩序に、そして物語は時間の系列に対応する。*42

とりわけ重要なのは次の箇所だろう。

運動イメージにおいて、ドキュメンタリーは、対象を客観的に提示し、あるいは対象の主観的な世界を再構成してきた。(……)これに対して時間イメージにおけるドキュメンタリーは、「仮構作用(fabulation)」をこととすることによって真理のモデルを放逐する。人間に作り話(fable)を語らせることによって、〈私〉の同一性は他者への生成に投げ込まれる。*43

貧しい者たちは仮構作用によって「おのれの民衆を発明する」。このときその人物は「モデルとしてではなく力能としてフィクションを肯定する」。彼らが仮構する「記憶」あるいは「伝説」は、「現在を避ける」と同時に「際限なき断片化」に抗うためのたったひとつの方法だ。仮構作用とは、「本当かどうかわからない話」としての伝説をその場でおこない、記憶にすることだ。*44

間隔のなかで身動きが取れず、瞬間に閉じ込められた私に、仮構された記憶が流れ込む。それによって、「固定点としての死」を超えて、私はふたたび持続を取り戻すだろう。先ほどの「身体」の議論と同型である。

 

零次性として位置づけられた「物の知覚」は、事物としての「映画」と生命としての「私」、と、生命としての「映画」と事物としての「私」が、オーバーラップしていることを指し示しているように思う。前者は運動イメージに、後者は時間イメージに分化するのだが、両者は事実的には混在しつつ映画的体験をもたらす。時間イメージにおいて、持続=運動するのは映画のほうであり、権利上「身体」も「記憶」も私の側にはなく、映画の側にあるのであり、いっぽうの鑑賞者である私は、持続しない「死んだイメージ」として、見者として、映画と向き合う。「物の知覚」から分化する時間イメージにおいて、まずわれわれが立たされるのは、こうした身動きのとれない圧倒的に受動的な状況だった。そこに、「身体の態度」あるいは「仮構作用による記憶」が与えられること。これが生成の概要だ。私はふたたび持続し、新たな思考が、美学が、物語が、空間が、この地点から、運動イメージとは異なるシステムで展開していく。


* * *


20世紀の建築は、映画になりたがっていた。

建築的な経験を「一挙に把握すること」は可能ではない。であれば、私たちはばらばらな空間的経験をどう綜合しているのだろうか。その綜合の先には何があるのか(あるいは綜合の先で何を失うのか)、建築家はそれをコントロールできるのか / してもよいのか。断片化した空間を織り上げ、ひとつのシークエンスの形成を試みるさいに、とりわけ映画は建築のレファレンスとなった。がしかし、両者の経験は正確にはことなる。当然ながら。しかし、「違う」ということこそが、映画と建築のあいだの摩擦こそが、ぼくらにとって重要なのだと思う。

建築における経験は、私たちの生活を背後で下支えするなにげないものであり、いわば無意識のうちで作動する。それは、環境条件への強烈な引き算(シェルターとしての役割)を前提とするが、一方で開放と解放を望むものであり、安定性を求める一方で偶然性も引き受けなければならない。ドゥルーズが問題にしたのは時間だけど、建築で問題の力点となるのは、時間というよりもむしろ空間のほうかもしれない(時間という観点でいえば、建築が対象とする時間は映画よりもゆったりとした、極端に言えば50年とか100年とかいうスケールでのものであり、そこでは巻き戻しも早送りも経験する側に委ねられている)。しかし、ドゥルーズを引き継ぎつつも、映像をことさら空間的なしかたで捉えようとしている人ーーエリー・デューリングがいる。もともとぼくは著者の福尾さんをデューリングに関するブログの記事で知ったわけだけど(http://scknglmn.hatenablog.com/entry/2016/09/08/202734、当時ぼくの研究室の助教だった柄沢祐輔さんから、デューリングについてさんざん聞かされていて、よく調べていたことを思い出す)、デューリング的な、位相幾何学的なカテゴリーを用いた空間的な映像把握という観点のほうが、同じく空間的な断片をつなぎ合わせる建築的な経験へと、想像力を投げ返すうえで有効なのかもしれないとも思ったりした。ただし位相幾何学的な議論は、それはそれで扱いが難しい概念であると思うわけだけれども、しかしそれでも、建築の側に議論の蓄積がないわけではない(むしろロビン・エヴァンスが『The Projective Cast』で指摘しているように、非ユークリッド幾何学の発見は近代建築と近代以前の建築を分かつ重要な分岐点のひとつだ)。

とはいえ、急ぐ必要はない。ひとまずぼくにとっては、『シネマ』と『眼がスクリーンになるとき』を吟味することに取り組まねばならないだろう。本書を読めば、『シネマ』における記号論が、建築のポストモダン期に展開された記号論とはまるで異なることが理解できると思う。後者は言語論的な記号論であり、パースの定義でいう三次性のみをことさら操作の対象とするようなもので、意味と象徴で満たされた「息苦しい」空間を生産することとなった。建築における「零次性」の境位を導入することは、はたして可能だろうか。あるいは、「位置づけられない関係」の編み上げ、あるいは「つなぎ間違いのシステマティックな使用」を、コーリン・ロウをもじった「虚の不透明性」として理解するとどうだろうか。時間的体制における視覚的なものと音声的なものの自律性は、建築においては何に対応し、そこではいかなる「可読性」がもたらされるだろうか。建築経験の前後を脱連鎖させ、エレメントの自律性を基礎づける「切断=間隙」は果たして想定できるだろうか。あるいは設計の過程において、連鎖-脱連鎖-再連鎖の機序を考えることは可能だろうか。カオスを経由した生成の体制の位置づけ、そこでの「賽の一振り」を理論化することは可能だろうか。

鈴木了二は、映画と建築が交差するときには必ず「事故」が起こるといっていた。事故の先にあるもの、彼が「瓦礫」と表現する何かは、今ここで考えていることと、おそらくそう遠いものではない。瓦礫(=映画と建築あいだの摩擦)こそが、ぼくらの新たな創造のための素材なのであり、どうなるかはまだわからないけれど、ぼくらはそこからはじめて、自分の手で、だんだんと、自分自身の新たなイメージを創造していく探求をはじめるだろう。

*1:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.79.

*2:Ibid., p.119.

*3:Ibid., pp.121-123.

*4:《私たちの知覚は、すでにそう語っておいたとおり、本源的には、精神のなかに存在するというよりは、むしろ事物のうちにあるのであり、じぶんの外部に存在するのであって、私たちの内部にあるのではない。さまざまな種類の知覚は、それぞれにリアリての真の方向をしるしづけている。とはいえ私たちとしては、みずからの対象と合致するこの知覚が、事実上というよりもかえって権利じょう存在するものであるしだいも付けくわえておいた。知覚はつまりこの場合、瞬間において生起することになるだろう。》(アンリ・ベルクソン: 物質と記憶, 熊野純彦訳, 岩波書店, 2015 (1896), p.430.)

*5:岡嶋隆佑: ベルクソンにおける知覚の諸相, 『哲学』第一三五号, 三田哲學會, 2015, p.82.

*6:Ibid., 註34

*7:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.128.

*8:ぼくは『創造的進化』を読んでいいないので、この箇所が妥当かどうかを判断することができない。ドゥルーズのいう「普遍的=宇宙的変動」が、『物質と記憶』への『創造的進化』の密輸入なのかどうか。本書第2章の次のような記述を思い出そう。
《あらゆるものの輪郭が消え去り、イメージそれ自体で作用であり反作用であるような宇宙。ドゥルーズはこのような、いまだ種別化されざるイメージ=物質の連続的な宇宙を「イメージの即時」「流れ-物質」、そして「内在平面」とパラフレーズしているが、とりわけ注目すべきなのは彼がこれを「イメージと運動との絶対的な同一性」そして「《イメージ=運動》(IMAGE=MOUVEMENT)」として概念化していることだ。これは、具体的に与えられることのない変化する全体としての運動あるいは持続と同一視することができるだろう。》(福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.71.)
さて、密輸入の有無を判断できないというのは、『物質と記憶』の第4章において、「イメージ=運動」的なアイデアがすでに提出されているのでは、とぼくは読んでしまっていたからだ。具体的には以下のような箇所。
《私の意識が抹消されたとしても、物質的宇宙は、それが在ったがままに存続してゆく。ただし、私たちはそのばあい持続の特殊なリズムを捨象しており、そのリズムは私が事物にはたらきかけるさいの条件であったのだから、それらの事物はみずから自身へと立ちかえって、科学が区別するだけの瞬間へと切りわけられてゆくことになる。そこで感覚的質は、消失することはないにしても、比較を絶して遥かに細分化された持続へとひろがって、希薄なものとなってゆく。物質はこのようにして、無数の振動へと解消される。それらの振動のいっさいは中断することのない連続性においてむすびあわされ、すべてはたがいに繋がりあい、あらゆる方向に向かっておなじだけ無数の震えとなって、疾走してゆくのである。》(アンリ・ベルクソン: 物質と記憶, 熊野純彦訳, 岩波書店, 2015 (1896), pp.408-409.)
「イメージの総体」から「世界の震え」へ。ひとつの動的連続性として、持続=運動と物質=イメージが重ね合わされているように読める。だたし、"ホーリズム的なしかたで"、だが。このようなベルクソンの記述とドゥルーズ=福尾の議論が明確に異なるのは、後者は映画をフッテージにしているのであり、つまるところそこでは「間隔の理論」が導入されていることである。映画における「間隔」は、かけ離れた時空間に属するふたつのイメージを連続させうるのであり、ホーリズム的な連続性を脱臼させるものである。ドゥルーズ=福尾のとった議論の展開というのは、ベルクソンにおける「世界全体は持続している」が、個体レベルで見ると有機物=生命と無機物は明確に分離されている(「減算」や「縮約」の有無によって)、というある種の矛盾(両者を合流させるためには、「縮約」なしの持続=運動(振動)をうまく説明する必要がある気がする)を解消するものなのかな、と、読んでいて思った。

*9:眼がスク, p.130.

*10:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.132

*11:Ibid., p.133.

*12:Ibid., p137

*13:Ibid.,  pp.139-140.

*14:Ibid., p.140.

*15:Ibid., p.142.

*16:とはいえ、時間イメージを運動イメージ的体制の行き詰まりから推移的に導出される概念として理解してはいけない。時間イメージと運動イメージは権利的には分別しうるものである一方、事実的には、両者はつねに混在した状態で表現されているはずなのだから。

*17:Ibid., p.159.

*18:ジル・ドゥルーズ: シネマ2 * 時間イメージ, 宇野邦一・石原陽一郎・江澤健一郎・大原理志・岡村民夫訳, 法政大学出版局, 2006 (1985), p.51.

*19:Ibid., p.96.

*20:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.164.

*21:Ibid., p.165.

*22:Ibid., pp.175-176.

*23:Ibid., p.176.

*24:Ibid., p.158.

*25:Ibid., p.181.

*26:Ibid., p.184.

*27:Ibid., p.185.

*28:Ibid., pp.191-192.

*29:Ibid., pp.197-198.

*30:《我々は対象において、本当に対象そのものであるところの即時的イマージュを知覚する。物質は、深層や、隠れた側面といったものを一切もっていなかった。この点で、ベルクソンの内在主義は、物質があるがまま完全に与えられているという事実を手放すことはなく、そこには認識が到達し得ない物自体や、隠れた超越の余地は全くなかったのである。(……)だが、ベルクソンは、記憶力を導入することで、そのような常識から大きく遠ざかってしまったように思われる。というのも、記憶力の導入以後、物質というものは、知覚の残滓、すなわち記憶力が二つの仕方で絶えず導入するものを知覚から取り除いた後でそこに残されるものとなってしまうからであある。》(カンタン・メイヤスー: 亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―, 青土社, 2018, pp.228-229.)

*31:《相関主義を受け入れず、思考と存在のカント主義的結び目を解かなければならないとしたら、中間を進むことはありえない。全ての存在者は、それじたいの権利において、少なくともある程度は感覚をもつものであると言うか、あるいは存在は根本的に思考から乖離しているとーーこの場合、様々のモノや対象は、その擬人論めいた特徴をすっかりはぎ取られているーーぼくたちは言わなければならない。(……)この選択はあれかこれかどちらか一方だけを意味する必要はない。より近年の思弁的実在論のいくつかは、汎心論と消去主義双方の最も極端な傾向をーーこのような結合がどれほど撞着に見えようともーー結びつけているように思われる。》(スティーヴン シャヴィロ: モノたちの宇宙 思弁的実在論とは何か, 上野 俊哉訳, 河出書房新社, 2016, p.123.

*32:カンタン・メイヤスー: 亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―, 青土社, 2018, p.259.

*33:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.241.

*34:メイヤスー的にいえばこれは「反動的な死」だろうか?関心の減少による穏やかな死。では、映画における「クリエイティブな死」とは?一度カオスを経由してからの生成に価値を見出すドゥルーズの議論とメイヤスーの結論はどれほど重なり合うのだろうか。

*35:Ibid., p.210.

*36:ジル・ドゥルーズ: シネマ2 * 時間イメージ, 宇野邦一・石原陽一郎・江澤健一郎・大原理志・岡村民夫訳, 法政大学出版局, 2006 (1985), p.294.

*37:『眼がスクリーンになるとき』のこの辺の記述(連鎖→脱連鎖→再連鎖)を、ダークヒーロー的でカッコいいなと思って読んでいたことはここだけの話だ(たいていのアメコミヒーローものは運動イメージ的な気がするけど、真のダークヒーローものは時間イメージ的な映画になるだろうか。バーホーベンの「ロボコップ」にはその感じがなくもないか、、

*38:たぶんこの最終章に反応するということは、言語でまとめるというよりは、ぼくでいえば建築の設計の実践において、みずから手を動かすことによって、つまりはなんらかの形を表現することによって、ということになろう

*39:福尾匠: 眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』, フィルムアート社, 2018, p.244

*40:Ibid., pp.248-250.

*41:Ibid., p.219.

*42:Ibid., p.268.

*43:Ibid., pp.278-279.

*44:Ibid., p.280.