声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

SEPT.21,2018_ドグマ

昨日のブログで書いたリー・キット展をみたあと、新宿へ向かい、福尾さんと千葉さんのトークを聞きにいった。水没したスニーカーが重くって、歩きにくかった(ちなみにキットがデザインしたマグカップをみながら、ぼくが展示室でみたものはやっぱり灰色だったのではないかと疑っている)。

ygscのトークもおもしろかったが、こちらもすごくおもしろかった。自分の頭はクリシェだらけで、真っ白なキャンパスをつくるためには、いったん他者としての非規範的権威=フッテージを経由しなければならない。その通りだよなぁと思う。

建築でいえば、たとえばそれはレファレンスだ。ぼくの場合、設計時に平面、断面、立面、パース等々の各水準に異なるのレファレンス=フッテージを流し込むところからスタディをはじめて、各々パラレルに動かしていって、フッテージ=足場が外れたところで合流させる、ということをする場合が多い。合流したときの摩擦、キメラ性を、ぼくは極力残すようにしている。

ドグマの話も、いま自分が考えていると重なり、非常に考えさせられた。建築でいえば、幾何学は圧倒的にドグマ。そして、建築でドグマといえばアウレーリのDogmaであり、彼はドグマとして正方形を使う。無根拠に使う、と宣言すらしている。

http://www.dogma.name/index.html

ちなみに一昨日書いた彼の初の邦訳本である『プロジェクト・アウトノミア』を、引き続き読み進めているのだけど、邦訳が実に充実している。とくに最後の用語集はすごい、、。

あと、ペットボトルも2年間の取材も等しくフッテージだという話を聞いていて、理念的にはその通りだとおもったのだけど、でも、良いフッテージと悪いフッテージはあるよなぁとは思った。その違いはどう考えればいいのだろう。あと福尾さんに、現実世界を「映画化」して『シネマ』の哲学的なシステムを考えていくことはできるのだろうか、ということを聞いてみたかった。現実をフィクションとみなし、イメージ=運動の世界として捉えること。

知らない人が多くいる場だとなんだか遠慮してしまって(というか度胸がなくて)、なかなか質問ができない。これは改善したいところだ、、。

 

明日は勉強会で都内いくので、SDレビューみにいけそう(日曜でおわりなの忘れてた)。上野の森の、金工大の笠さんがやられてる書物展もみたいし、いけるかどうか、、。今週は都内に出ること多かったな。

 

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(Canon AE-1 Program, FD F1.4 50mm, 記録用フィルム100)