声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

MAR.25,2019_ 失われたモノを求めて

 『失われたモノを求めて』(池田剛介)を読んだ。これまでの池田さんの論考や作品にすごく共感していたのでこの初の単著をとても楽しみにしていたのだけど、その期待を裏切ることなく、すごくよかった。とくに書き下ろしの論考「失われたモノを求めて」ではきわめて複雑な内容(とあえて言うけれど)が大変読みやすく書かれていて感服。ぼくの専門は建築だが、社会的な制度にからみとられつつ「造形」をせざるをえない多くの同業者にぜひ読んでもらいたいと思った。ことさら人間同士の関係性に重きをおいた建築(あるいは本書の言葉でいえば〈活動〉偏重の建築)に少し違和感を感じている人はなおさら、である。あと、装丁がとても凝っていて本自体がモノとして面白いのも内容とのフィードバックがあってよかった。例えば見返しやタイトルページ、奥付で使われている光沢のある紙がドローイングを反射しているのもきれいだし、書き下ろしテキストがホワイト、再録テキストに濃いグレーの紙が使われていて、あとがきでは薄いグレーから徐々にホワイトへと紙色が移行していたりするのもグッときた。最近は装丁のおもしろい書籍が多い気がしてぼくは嬉しい。本のモノとしてのありかたをちゃんと尊重している、というか、読書という知覚経験に本というモノが及ぼす効果を(内容とリンクさせながら)デザインの勘定に入れられている書籍が多い気がして、刺激を受ける。

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 さて、個人的にはアーレントの議論から赤瀬川を経由して模型の話へと移行していく部分が大変勉強になったので、少し引用。

バトラーが批判的に言及しているように、アーレントが政治的な行為を私的・身体的必要の次元から切り離しながら、純粋に公的なものとしての政治に高い価値を認めていたことは確かである。だが実のところアーレントは、私たちがモノと共に存在していることを鋭く見据えていた。この点に注目してみたい。言ってみればそれは、激しい川の流れのなかにある複数の岩が、部分的に静かな水面を作り出すかのように、モノが外的環境から閉じられてあるころで、流動する環境のなかに人間が生きるための安定的な場をもたらす、ということである。

池田剛介: 失われたモノを求めて 不確かさの時代と芸術, 夕書房, p.30, 2019 

公的な領域と私的な領域を明確に区分するアーレントの議論に対し、バトラーはきわめて私的な“モノ”である人々の身体が公的な場に現れるということを問題の矢面に立てた。すなわち、「ひとつの全体として同一化され得ないマイノリティとしての存在たちが、全体化されないままに連帯することは、いかに可能かーーバトラーは、そうしたバラバラな諸存在が連帯する準拠点に、私たちの「身体」を定める」(Ibid., p.26)。「秘密」をその身に抱え込んだモノとしての身体を捉えるバトラーに対し、池田はリテラルに、公的な場に現れるあらゆるモノ(ダンボール、イス、タイヤ、、)を議論の主軸に据えている。そしてその視座は、実はバトラーが批判の対象としたアーレントの議論のなかにそもそも含まれていた可能性なのである、と。

主著である『人間の条件』において、アーレントは人間の行為を三つに分類している。公的な場で言論行為や政治的実践を行う〈活動(action)〉、その対極に位置するように日々の生活の必要に基づいて為される〈労働(labor)〉。こうして活発な働きで人と人との間に関係性をつむぐ〈活動〉でもなく、生産物が生み出されたそばから消費される〈労働〉とも異なるのが、手を動かして耐久性のあるモノを形作る職人的な営為としての〈仕事(work)〉である。

Ibid., p.30

〈労働〉によってもたらされる消費財(たとえばパンにしろ何らかのサービスにしろ)に対し、〈仕事〉によってもたらされるモノ(例えばテーブルや靴)は、複数回の使用に耐えることが特徴である。後者は一定の時間わたしたちの生(活)の周囲で持続することで(その「耐久性」という性質によって)、個人のアイデンティティの輪郭を守る防壁となったり、愛着を宿す対象としてぼくらを癒やしたり、公的な空間において人々を結びつけたり逆に引き離したりする。しかし、こうした〈活動〉/〈労働〉/〈仕事〉という古代ギリシャを規範とした3区分は、アーレント自身が見立てていたように、20世紀の時点ですでに成り立たないものであった。そこでは大量生産・大量消費を背景に、ひたすら経済性に資する〈労働〉(とそれに付随する消費財)が前景化していき、モノの「耐久性」は時代を減るごとにすり減ってしまった。

 こうした状況を背景に、〈仕事〉ーーすなわちモノの制作ーーを主題に様々な議論が進められるわけだが、そのなかで赤瀬川原平(のとりわけ「千円札裁判」)を経由して池田が強調するのは「模型」のもつ可能性である。模造(偽物)と模型の決定的な違いはなんだろうか。

それはなんらかのかたちで本物から投影されたモノであり、その意味で本物ではない。しかしそれは偽物でもない。偽物(儀札)は、限りなく本物に姿を似せながら、本物に成り代わろうとするものだからである。こうして模型は、本物と偽物の双方から距離を取った位置に、その場を占めることになる。

Ibid., p.50

模型はそれ自体「物理的なモノ」であり、それと同時に「〈実物〉との関係」をもつオブジェクトである。この2点に模型の特徴は集約でき、そしてこれによって模型は〈実物〉のもつフィクションを暴き出す力さえもつ(例えば赤瀬川が実践したように、千円札=貨幣は体制や制度によって保護されているだけでリテラルには単に紙なのであり、その価値のフィクション性を千円札の「模型」は照らし出す)。〈実物〉との一定の距離を保った「〈実物〉のようなもの」としての模型。

作品が虚構であるなら、社会もまた虚構である。そこで芸術と社会は対立するのではなく、形式の異なる同じフィクションとして並立する。そのとき必要なのは、社会に対して直接的に働きかけるのではなく、モノ=作品として閉じられていることなのだ。裏を返せば、芸術とその外とを区別し、外にある「現実」へと向かうことは、「現実」を絶対化し、動かし得ないものとして固定化することにすらなりかねないだろう。

 芸術の内と外とを区別するのではなく、既存の社会のフィクション性と並立するように、あるいはその傍らに置かれるように形作られる模型としての作品。それは有限なモノとしての輪郭をもち、閉じられているがゆえに、観る者に既存の社会からの距離をもたらし、社会のフィクション性を見据える装置としてのモノ=作品となるのである。

Ibid., p.52

本書の重要なポイントは、必ずしも旧来の古くさい「モノづくり」に回帰せよ、と提案しているわけではないことだ。本書では、たとえば公の場に切断的に現れるモノが(人間の身体もまたひとつのモノとして)独特の仕方で連帯することの意義が見出されていたり、あるいは「始まり」と「終わり」がある孤立した作業たる〈仕事(work)〉について、その性格を〈活動〉および〈労働〉との関係から明確にしたうえで再評価されていたりするのだけれど、その結果見出されるのは仮設的に「世界」“のようなもの”を形成する「準-モノ」の可能性であり、そして、各々に独特の性格を持った〈活動〉/〈労働〉/〈仕事〉を軽やかにスイッチしうるような制作人(ホモ・ファーベル)像の可能性である、と思う。

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 ちなみにだけど、模型を主たる展示物とする展覧会の会場構成をやり下のようなぼやきをTwitterでしていたところだったので、池田さんの書籍のこの部分はとくに心に残ったのだった。

模型はいつでもふた通りの視点で眺められうる。ひとつはミニチュアの世界に没入する視点であり、もうひとつはそれをたんに見えるまま捉える視点だ。/だから模型と写真は似ている。写真もまた、カメラと眼を等号で結ぶことで撮られた対象に没入するモードと、印画紙をたんに目撃するモードが存在する。/この複数の視点の往来が模型のおもしろいところだと思うのだけど、何かを再現することを求められる建築模型の場合、模型のそれ自体であること、はないがしろにされがちだ。/…と、アアルト展の初日、玄人感のあるおじさん2人組が「アアルトの実物をみている身からすると白模型は満足できませんな〜」と話しているのを聞き、こういう不満をもったのでした。

3月11日のつぶやきより