声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

APR.11,2019_せんだいメディアテーク

 元号が変わるということでなんとなく考えていたのだけど、平成を代表する日本の建築はなんだったのか、という問いに対しては、たぶん多くの人が「せんだいメディアテーク」(伊東豊雄)の名を上げるのではないか。

 せんだいが面白いのは、評価のしかたが(あるいは批判の方向性が)人によってバラバラであることだと思う。たとえばあのガラスのファサードの物質感の強烈さに違和感を覚える人もいれば、前面のケヤキ通りが映り込む姿を肯定的に捉える人もいるし、チューブ内のエレベーターシャフトを上下するときの、薄いスラブが目の前を通り過ぎていく光景を新鮮に捉える人もいれば、チューブの空間的な「活用」に異議を申し立てる人もいる(ぼくがその立場だが...)。また、コンペ時の模型がもっていたあの軽やかなイメージが現実には全然実現されていないことを指摘されるいっぽうで、現実の厳しい条件との葛藤の末に現在の姿を獲得したことを評価する向きもある。ぼくも、学部一年生の春だろうか、はじめてせんだいを訪れたときに「意外とマッシブだな...」と感じたことを今でも覚えている(だいたい全員が抱くであろうイメージじゃなかろうか)。実際に中に入ってみるとあのチューブの存在感がびっくりするほど薄いことや、全体的にけっこうゴツいということについてぼくは別に悪い印象をもっていないというか、むしろあのゴツさに建築としてのリアリティを感じている。説得力をもつある凡庸な質を良い意味で獲得してると思う。とはいえ、簡単に納得もできない自分もいる。

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(出典: https://bit.ly/2ItbYjI

 

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(出典:  https://bit.ly/2UQ5Ecz 

 

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(出典: https://www.smt.jp/en/

 

 たとえば、チューブだけで構造が成立させること(鋼鈑ハニカムスラブに柱状の鋼管トラスユニットがねじれながら複数貫通しているという形式)を徹底させる、ということにこだわらなければ(変なところでポスト柱が落ちてきたりすることを許容すれば)チューブの鋼管の断面をもっと小さくすることもできただろうし、そうすれば伊東さんの初期スケッチやコンペ時の白模型がもっていた構造体のイメージが(内部空間を体験する人間に与える影響を最大化した状態で)実現していたような気がする。また、チューブは縦動線や設備配管・配線スペースとしてすごく役に立っていますよ!みたいな野暮なことはせずに、チューブ外にエレベーターや階段やPSが出てくることを許容してでも、チューブの内部を純粋な空洞にしておくべきだったのでは、とも思う(ポシェでありながらスカスカである、という)。もしあのチューブの内部が完全な空洞になっていれば、つまり見ることはできるけど決して内部にはアクセスできない純粋なヴォイドとして実現されていれば、なんというか、本当に柱が分裂して膨れ上がって薄い鉄板スラブを貫いているような感触を得られたような気がしている。個人的には本当に長年あのチューブの中には入れなかったほうがよかったと思っていて、すごく残念に思っているところだ。

 現実への対応の仕方として、チューブを構成するスチールパイプの断面を大きくしたり内部を配管や動線スペースとして活用したりしてでもあのチューブの構造システムが自律しているということを突き通す態度が、まず考えられるだろう(これは伊東さんと佐々木さんが実際にとった方法だ)。逆に、チューブ以外の構造材を付加してでも何をしてでも、チューブの軽さとその内部の純粋性を保ち、最後までチューブがもたらす空間的な効果を貫き通す、という方法も考えられる。構造力学的にはもちろん前者のほうが純粋であり、この方法をとればチューブの構造システム“だけ”で構成された、コンペ当初に考案された形式で構造的に完結した建築物が立ち上がることになる。一方で後者は、チューブ以外の構造材が出てきたり、あるいはチューブ外のエレベータコアが効いてきたりして、構造的にはまったく不純な(チューブだけで構造が完結していない中途半端な)建物が立ち上がることになる。が、空間的な効果としては、現行のせんだいメディアテークよりも純粋な何かがそこに成立していたかもしれない、とも思う。形式の完結性を優先するのか、あるいは、形式が破けていくことを許容してでも、構造体のもたらす「効果」を優先するのか。両者の徹底は、いつでも「相入れる」というわけではない。

 どちらが正解というわけではないし、どちらが純粋でどちらが不純なのかということもぼくには言えない。けれど、ぼくはせんだいメディアテークのことを思い出すたびに、こういったことをすごく考えさせれる。みなが口をそろえて同じ言葉で褒め立てる作品なんてものは、実は大したことはないのかもしれない。ある建築作品がある時代を代表する条件というのは、せんだいメディアテークのように評価や批判の方法がばらばらで、でもだからこそ建築を考えていくための思考の素材を提供し、次なる設計の土台となっていくこと、なんじゃないかと思ったりする。

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Contax S2, Carl Zeiss Planar T* 1.7/50, Kodak Ektachrome E100