声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

APR.27,2019_なんという感動

 「感動」という現象を考察しているユベルマンのテキストがすばらしかった(ジョルジュ・ディディ=ユベルマン: なんという感動! なんという感動?, 橋本一径訳, photographers’ gallery press no.13, pp.69-85, 2015)。2013年に高校生にむけておこなわれた講演記録の邦訳なんだけど、イメージの取扱いがすごく良い。変な解釈をしないというか、イメージをそのまま直視して考察している感じで。このテキストはダーウィンの『人及び動物の表情について』で取り上げられている泣きじゃくる子供の写真に言及していくところからはじまるのだけど、それに合わせて、以下のようなユベルマンの態度表明のような言葉が添えられている。

「科学」や「哲学」などというものは、唯一の言説という意味では存在しない、つまり「科学が言うところによれば……」や「哲学が教えるところによれば……」といった類のものは存在しないことには注意が必要です。存在するのはむしろ諸々の場、つまり“戦場”ーー「科学」「哲学」あるいは「政治」という名のーーであり、そこでは同時代の、あるいは時代を隔てた、まったく同意できない人々が、ぶつかり合っているのです。(......)まずは問うことです。しかしどのように問えばよいのでしょうか。少なくとも二つの問い方があります。不信と疑いを持って問うこともできるでしょう。眩しいランプをあなたの顔に当てて尋問してくる警察官のように。あるいは信頼を持って問うこともできるでしょう、たとえこの信頼が一時的で条件つきだったとしても。信頼の方を選びましょう。泣いている子供を(そしておそらく大人の私が泣きたくなるときに、私の中に生き延びている子供を)信頼することにしましょう。
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン: なんという感動! なんという感動?, 橋本一径訳, photographers’ gallery press no.13, p.72, 2015

 “信頼”をもってイメージを直視することで、ユベルマンは「感動」がぼくたちに提起するいくつもの問いを引き出す。あらためて『人及び動物の表情について』におさめられた子供の泣いているイメージに注目すると、そこでは「とても強い何かが、子供の内から外へと、あたかも飛び出しているようでありながら、閉じられた目は、外部の世界が自分のもとにやってくるのを拒んでいるよう」である。ユベルマンによればダーウィンはこの本で「泣く」ということが、つまり感動するということがきわめて原始的な状態であるということを示そうとしていた。たとえばダーウィンは泣いた子供イメージを、機嫌の悪いチンパンジーのイメージや、狂女、精神障害をもった老人のイメージと併置させる、だけではなく、「野蛮人はまったく取るに足らない理由で多くの涙を流す」と説明し、さらに「イギリス人はきわめて悲痛な心の苦しみに襲われたとき以外は、めったに泣かない」と記す。このとき(時代状況からいってしょうがないとはいえ)彼に明確な差別的意識があったことは言うまでもないのだけど、それ以上に注目すべきは、「物心ついた大人ならば、感情を表現するという原始的な行動を抑えることができる必要がある」というような倫理的判断を前提していることだ。少なくとも後者に関しては現在も引き継がれている認識であるように思われる。たとえば(喜びであれ悲しみであれなんらかの)感動に打ちひしがれ、街なかで泣き叫ぶ人をみたときの典型的な反応は、「彼は悲壮だ」という表現だろうから。感情が真っ裸にされる姿を他者にさらされているのを見て、ぼくらは大抵そう感じてしまう。しかし、

このような語り方を私はまったく好みません。第一に、他人の前で感動している者は軽蔑に値しません。彼は自らの弱さを、自らの力のなさを、あるいは自らの不能を、もしくは「面と向かう」ことの不可能性、「涼しい顔をする」ことの不可能性を晒しているのです。(......)「面目を失う」というリスクを冒すことによって、感動をさらけ出した存在は、誠実な行為に身を投じてもいるのです。彼は自らを貫通するものについて嘘をつくのを拒み、見せかけることを拒んでいるのです。状況によっては、あえて感動を見せることは、勇敢な行為にも見えることもあるのです。

Ibid., p.74

 さて、悲壮(pathetique)という語の背後によこたわるのはパトス(pathos)というギリシア語のながい歴史だ。アリストテレスは『カテゴリー論』において、動詞の能動形(行動している形)と対地させながら、受動形(すなわち受難している形)としてパトスという語を位置づけた。「行動する」ものに対しての、「被る」ものとしてのパトス。パトスとは受難であり、行動することの不可能性だ、と。多くの哲学者は、あたかも校庭で泣き叫ぶ子を悲壮だとみなすいじめっ子のように、感動するということを弱さ、欠点あるいは不能であるとみなしてきた。

一方で感動は“理性”と対立し、他方では“行動”(つまり自発的に自由に大人として人生を歩むこと)と対立します。つまり感動とは袋小路ということになるでしょう。言語の袋小路(感動すると私は唖然としてしまい、自分の言葉を見つけることができなくなります)、思考の袋小路(感動すると私は自らの方法のすべてを失います)、行動の袋小路(感動すると私はただ指をくわえて、まるで見えない蛇に噛まれたかのように動けなくなります)。 

Ibid., p.75

 「理性」及び「行動」と対立するものとしての「感動」、というと、たしかに、いっけんするともっともらしい規定であるように思える。まさにカントが、感動は「理性の欠如」であり「魂の病」であると語ったように、感動とは様々な袋小路をもたらすものであり、しばしば否定的な事柄として(直視されることなく、別の概念でパラフレーズされながら)扱われてきた歴史がある。では、「だとすればダーウィンが言ったように、感動は子供たち、女たち、狂人たち、老人たちや野蛮人たちに任せておくべきなのでしょうか?」。

否、否、そして否。三重の否です。哲学が戦場であるのは先ほど申し上げたとおりです。ならば前線を反対方向に突破してやりましょう。まずはヘーゲルがいます。否もまた存在しているのだと、許と同じくらいに必要なのだと述べたのはが彼でした。(......)続いてはニーチェです。「論理的」な哲学者よりも悲劇詩人を好んだのがニーチェの出発点でした。つまり彼はパトスと感動に、積極的で豊饒な価値を与え直したのです。このような「被ったもの」、場合によっては苦痛を、ヘーゲルは「特権」と呼びましたが、ニーチェはそれを「源泉」と読んで、私たちの生命全体にとってそれが持つ力や重要性を示すことができるのが芸術や詩であるとしました(......)感覚的な生は、情念的なものも含めて、エネルギーを持ったものとして“描写”されるのであり、単に理性と行動に対する義務の中に“規定”されるだけではありません。こうして行動と情念との対立は、揺さぶりをかけられ、問い直され、寸断されます。(......)それは言葉自体がそもそも雄弁に語っていることです。感動(emotion)とはe-motionすなわち私たちを外へ(e-, ex)と、自分自身の外へと導き出す動き(motion)ではないでしょうか。そして感動が動きなのだとすれば、それはまさしく行動です。外面的であると同時に内面的な身ぶりのような何かです、なぜなら感動が私たちを貫くとき、私たちの魂は動き、震え、揺さぶられ、私たちの体は自分でも思っても見なかったような多くのことをするからです。
Ibid., pp.75-76

 感動(e-motion: 感-動)とは「自分の外への動き」であり、“私”のなかではなく、ある個別具体的な“出来事”に属するものである。そして私たちは、感動して我を忘れたときかならずある「身ぶり」を噴出する。それは動く化石のようなもので、そこでの身ぶりには非常にながい歴史が残存していて(言語を開発する以前から、ヒトは身ぶりを用いた感動の噴出によってコミュニケーションをとっていたはずだ)、だからこそ感動は集団全体で理解されうるものになるだろう。袋小路かと思われた感動のさなかにおいて、私たちは“動いてしまっている”。そしてまさにその動き、動作によって、言語・思考・行動の袋小路は“突破されてしまっている”。

 真の感動は、「誰にでも認識可能な身体的記号ーー身ぶりーーを経由するのであり、また経由しなければならない」のだとユベルマンは述べる。「転んだことでおもわず泣いてしまった子供」の表情が、「母親に心配してもらうために泣いたふりをする子供」の表情よりも真なる感動であるとは彼は考えていない。それらはいずれも「自分の外への動き」、ある種の伝達のための動作である、という点では変わらないからだ。認識可能な身体的記号、身ぶりを経由した感動、それは一種の儀礼にも似た動きであるとも言えるだろう。ぼくらは「感動すること」を“表現”することを通し、決して相容れない他者とコミュニケーションをとり、自らを貫く感動をある集団のなかで共有し、あるときにはそれを結晶化させる(たとえば葬儀において、厳格に規定された身ぶりを集団で同期させることで悲しみを共有すること、あるいは振り上げる拳によって抑圧への抵抗を表現し、革命を加速させること)

感動とは動きであり、動作であり、振動であるからには、感動する者の変形でもあるということです。自らを変形させるとは、ある状態から別の状態に移るということです。感動とは単なる受動の状態としては定義できないという私たちの理念は、これでさらに確かめられたことになります。(......)感動は変形の力を持っているーーあるいは力であるーーということです。記憶から欲望への変形、過去から未来への変形、あるいは悲しみから喜びへの変形。(......)考えてもみてください、そして現在の喜びの只中に不安の痕跡を見出すと同時に、目下の苦しみの只中に喜びの可能性を見出すことにしようではありませんか。

Ibid., pp.82-85

笑うことにしろ、泣くことにしろ、怒ることにしろ、感動という現象はたしかに、どこまでも受動的であると同時にどこまでも能動的である。それは出来事の再現(representation)であり、行動としての表現(expression)でもある。ぼくらはその二重性のなかで生き、笑い、泣くのだ。

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 「否、否、そして否。三重の否です。」というワードがすごく好き。ユベルマンは意外と熱いひとなのだなと感じた(まあ講演記録だもんね)。ぼくも機会があったら使ってみようと思った。でも飲み会とかで突然「否、否、そして否!三重の否だ!!」とか言い出したら完全にヤバイやつなので、使いどころが難しい。

 さいきんアップしている写真は3月から4月にかけて撮ったもので、ようやく溜まっていた写真が放出できてきている。あたたかくなってくると、撮影する写真の枚数が増えていくので、よかった。

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Contax S2, Carl Zeiss Planar T* 1.7/50, Kodak Gold 200