声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

MAY.27,2019_新たな約束事

 門林さんのテキスト「メディウムを混ぜかえす」(『イメージ学の現在』第10章)がたいへん勉強になった。ロザリンド・クラウスの「ポストメディウム的状況 / 条件」をめぐる議論を、クラウスが刺激を受けていたスタンリー・カヴェルの映画理論にも目を配りながら詳しく検討したもの。

彼女にとって、(芸術表現が用いる)メディウムとは、技術的支持体(technical support)のことであるが、それは必ずしも(例えば絵画におけるキャンバスや筆、顔料のような)物質的支持体(material support)とは一致しない。したがって、彼女にとって、芸術表現においてメディウム固有性を追求することは(単純化されたグリーンバーグ主義がしばしばそのように理解されるように)一定のジャンルの物質的条件へと芸術表現を還元することではない。(…)彼女にとって、メディウム固有性の追求とは、一定の技術的支持体が可能にする表現を、一定の約束事(convention)ないし「自動性(automation)(スタンリー・カヴェル)へと練りあげることである。

門林岳史: メディウムを混ぜかえす――映画理論から見たロザリンド・クラウスの「ポストメディウム」概念 (坂本泰宏, 田中純, 竹峰義和: イメージ学の現在: ヴァールブルクから神経系イメージ学へ, 東京大学出版会, p.254, 2019)

クラウスの提出したメディウム固有性についての観点に立ったとき、現代における映画(およびヴィデオアート全般)のポストメディウム的状況についての議論は下記のような仕方でまとめることができる。

映画のメディウム固有性は、デジタル時代に初めて危機にさらされたとしてよいのだろうか。ここで二つの立場を対比させてみたい。

①映画は今日、ポストメディウム的状況にある。なぜなら、デジタル時代において、映画のメディウム的条件は、その物質的支持体であるセルロイド・フィルムに還元できないからである。今日、必要とされているのは、映画の存在論を、その単一の物質的なメディウムに還元することなく再構築することである。

②映画はその誕生の瞬間からつねにすでにポストメディウム的状況にあった。なぜなら、映画のメディウム固有性は、グリーンバーグにとっての絵画のメディウム固有性とは異なり、映画に固有の単一の物質的支持体に存するのではないからだ。むしろ、映画のメディウム固有性は、一連の技術的支持体(フィルム・カメラ・映写機・スクリーン・映画館など)と、映画的経験を構造化する一連の約束事のうちに存している。

 この双方が、慎重な検討に値する重要な問題設定であり、これまでのところ映画理論は、主に①の立場から出発してクラウスのポストメディウム論に関心を寄せてきた。しかしながら、私の考えでは、映画理論がクラウスのポストメディウム理論から汲みとるべき教訓の核心は、むしろ②で定式化した立場のほうにある。

Ibid., pp.258-259

  ぼくは建築を専門として勉強している立場にあるので、無意識のうちに建築的な実践への転用可能性を頭のどこかに置きながら(忘れがちではあるのだが)建築以外の分野をみてしまっている、と思う(ほんとうはこれ、ちょっと嫌なのだけど)。それで、写真と映画に関するテキストというのはなぜか「建築にも活かせそう」センサーに引っかかりやすく、これってなんでだろうってずっと考えていたのだけど、上記の記述でその謎がすこし解けたような気がする。

 門林さんが書いているように、やはり上記の②の着目点がとってもとってもおもしろいと思った。メディウム(ある完結性をもった「形式」あるいは「ジャンル」といってもいいだろうけど)のもつ固有性は、いくつかの装置の集合的な条件、そしてそのメディウムの経験する際の「約束事」(convention)によって規定されるのではないか、と。つまりメディウム固有性には「複雑さ」というパラメータが存在する。建築というジャンルの固有性を説明する際にどういった条件が適切なのか、という問いに対してぼくはまだ明確な答えを持ってはいないけれど、すくなくとも映画や写真に興味を惹かれるのは、メディウム固有性に規定する際に複数の装置が介在せざるを得ないというその質に、どこか親近感を覚えているからかもしれない。

すなわちクラウスは、一定のジャンルとそれが用いる技術的支持体が可能にする「約束事」まで含み込むようなかたちで、メディウム固有性概念を再定義した。そのようなメディウム固有性の理解において、モダニズムの芸術家の使命とは、一定のジャンルにおける約束事に基づいてそのジャンルが可能にする表現の「新しい一事例」を創り出すことではなく、そのジャンル内部に「新しいメディウム」を創出ないし発明することである。それは同時に、新たな約束事を、すなわち「新たな自動性」を発明することを意味している。

Ibid., p.263

 ハイデガーを例に出すまでもなく、うまく機能しているときの「道具」はつねに控えめで、それはしばしば無意識に使用される。映画を観賞するとき、その技術的支持体(フィルム・カメラ・映写機・スクリーン・映画館など)が感知されることは少ない。映画を成立させている道具のネットワークはぼくらが物語に没入しているときほど意識から退隠しがちだ。が、ある種の映画は技術的支持体のネットワークを部分的に切断することで、映画装置それ自体を物語のなかで露出させる。映像を撮影しているカメラの物質性とその位置、スクリーンを眺めている自分自身の身体、映画館という空間など、映画というメディウムの技術的支持体を構成する複数の映画装置のその“各々”が物語のなかで露呈しうるわけだが、それら自身もまたひとつのメディウムであることを忘れてはならない。だから、そこでは映画以外の別のメディウムが、別のメディウム・スペシフィックが喚び出されているのだと思う。

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