声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

JUNE.17,2019_形式の可塑性

 現在にいたるまでのおりふしで、建築物における強い形式性はそこでの行為の不活性化もたらす一種の悪因とみなされてきた。しかし、ルイ・カーンの建物にしろ、アドルフ・ロースの住宅にしろ、建築における明確な形式性がむしろ行為を活性化するために差し向けられている、という先例はいくらでも挙げることができるだろう。設計に際してあらかじめ正しいものとして措定される自己目的化したメチエとしての悪名高い形式とは異なり、そこでは人間を賦活しうる形式のありようが、個別具体的な環境との拮抗関係のなかで検討されているのである。たとえばヴェルフリンによる「形式」の位置づけをみてみよう。

物質は重い。物質は下方へと圧迫し、形のないまま大地に拡がろうとする。私達は重さの暴力を、私達自身の肉体から知っている。何が私達を直立させ、形のないものへの倒壊を妨げているのか? それは反力であり、私達が普通、意志や生命と呼んでいるも力である。私はそれを、形式力と呼ぶ。有機界全体を動かしている、“素材と形式力の対立”が、建築の根本テーマである。(...)形式は、外的なものとして素材の上に投げかけられるものではなく、恒常的な意志として、素材から働きかけてくるものであることは疑い得ない。つまり、素材と形式は、不可分である。いかなる素材にも、形式へと迫りながら、必ずしも生き終えることのできない意志が働いている。
*1

 ここでは基本的に、「物質」に対置されるものとして「形式」が定義されているように思える(「素材と形式力の対立」)。事物は「形式なき素材」と「素材なき形式」が合わさって現実化するのであり、流動的で前個体的な「素材」が大地に拡がろうとする動きを「形式」がせき止め、静止させる。しかし本当にそうだろうか。

 「素材と形式は、不可分である。いかなる素材にも、形式へと迫りながら、必ずしも生き終えることのできない意志が働いている」というヴェルフリンの最後の一文はヒントになりそうである。すこし推し進めてみよう。たとえばレンガの素材となる粘土は、ある一定のかたちの変化を受け入れる「やわらかさ」をもつ一方で、それ自体が変化に抗する性質(かたちを保持する能力)をもあわせもつ。粘土のもつ「変形をゆるす」力と「変形に抗する」力が鋳型と均衡状態に入ること、これによって最終的に、(粘土に対して相対的に長く保たれるような静的かつ安定的な性質もつ)レンガという新たな素材が生成される。レンガのもつ明快で静的な幾何学性は、制作過程における粘土の「やわらかさ」と「かたさ」なしに決して語ることのできないものだ。鋳型に注ぎ込まれる素材にはいわば「可塑性」が備わっている。だから物質と形式があらかじめ峻別されることはありえないのだ(そもそも物質はひとつの形式であり、形式もまた物質性をもつ)。「形式」には物質と対になる静的でレンガ的なモデル(アリストテレス的な形相-質料モデルともいえよう)と、可塑性をもつ粘土的なモデルがある、とここではひとまずはいえるかもしれない。既存の環境をゆるやかに受け止め、行為を誘発し、より自由で解放的な人間の生を約束する形式性を建築が獲得するためには、後者の形式の可塑性への着目が必須であるようにぼくには思われる。

地勢と光とはその批判性において重要なものではあるが、建築の自律性の第一の原理は、"風景配置的なもの"ではなくて"構造学的なもの"にある。つまり、こうした自律性は目に見える構築の結節点、つまり構造の統辞論的な形式がはっきりと重力の作用にさからう仕方の中にあるのである*2

 建築の第一の原理は垂直方向の拮抗関係(端的に梁と柱の結合部)にこそ現れるというフランプトンの意見には概ね同意するところだけれど、すぐに上記のヴェルフリンの記述とフランプトンの記述がよく似ていることに気がつく(そしてここでは「形式なき素材」と「素材なき形式」の対立、という形相-質料モデルが前提とされているように思える)。ぼくは「形式とはやわらかな動的プロセスにおける準-安定的な状態としてでしか定位しえないものである」という認識に立ったうえで、むしろフランプトンが否定する「風景配置的なもの」、すなわち形式をある場所にセットしたときの“水平方向”の拮抗関係こそ注目したいと思う*3。物質と形式の、安定的で動かない垂直方向の拮抗関係とは対照的に(結合部は簡単に動いてはいけない)、水平方向において形式はもっと自由に動かせる。そこでは粘土のようにやわらかく可塑性のある形式のモデルが採用されるべきだ。

 たとえばある形式を、風景のなかにそっと置いてみる。「形式」は、風景(既存の人工物にしろ、自然環境にしろ、政治的な圧力にせよ)からの侵食を十全に受け止めることができるだろうか。「形式」とは可塑性をもつやわらかい粘土のようなものであり、外的環境からのプレッシャーはいわば鋳型である。この2つの力が衝突し、徐々に安定的な状態をつくっていくという持続過程のなかで、素材としての形式はゆがみ、ほつれ、自らの姿をなんとか保ちながらも、本来の姿とはかけ離れたものに生成変化していく。 建築とは、というか生命一般は、そういう仕方で暫定的に安定的な状態をつくりだすことで、この世界で成立しているのではないか。であれば建築家はただ、形式が環境に置かれた際のほぐれ・もつれ・ほつれを肯定し、それの変化の過程に最後まで随伴すればよい。

 ある形式と風景の接触が「建築」の発生に先立ち、それ(=事後的に算出された「建築」)を条件づけているならば、風景と接触する以前に、「建築」というものがあらかじめ存在することはありえない。そこにあるのは「建築」に先立つ何かであり、この境位にあっては、風景に影響を及ぼすこと、と、風景から影響を及ぼされること、のくべつはほとんど不可能と化す。 「建築」の発生にはこうした圧倒的に受動的構成(形式と場所の接触と侵食)があり、この「建築」はいわば「形式が風景を知覚する」ことを通じて生まれるのである。だから形式はむしろ、周囲の環境を「掴む手」として作用する我々の道具なのだ。あたりまえのことといえば、あたりまえのことなのだけど。

  今日、ずっとみてみたかった住宅を幸運にも体験することができた。その建築はたいへんに厳格な形式性をもちつつも柔らかく、自分の感覚が建築の外側の環境へと、どこまでもどこまでも拡がっていくようだった。

 -

f:id:o_tkhr:20190607023555j:plain


 

*1:H. ヴェルフリン: 建築心理学序説, 上松佑二訳, 中央公論出版, pp.23-25.,1988

*2:ケネス・フランプトン: 批判的地域主義に向けて 抵抗の建築に関する六つの考察, 反美学 ポストモダンの諸相, ハル・フォスター編, 室井尚・吉岡洋訳, 勁草書房, p.59, 1987

*3:ちなみに「風景配置的なもの」は原文だと「scenographic」なのだけど、ここでは邦訳をわりあい文字通りに受け取っているので注意されたい(ある風景のなかでの視覚的な「建ち方」のようなものは建築の第一原理とはならない、ということだろう)。scenographicという語の意味合いをよく考えると、そこではテクトニックに対置される舞台美術的な仮設性が問題視されているような気もするのだけど、ぼくとしてはその仮設性こそ肯定したいと思っている。