声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

JUNE.26,2019_なぜフィクションか?②

前回からの続き。

www.ohmura-takahiro.com

 

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 シェフェールはミメーシス関係をあつかうさまざまな著作から、模倣(imitation)概念を5つの型に整理する。

a: 偽装

 生物学や動物行動学において用いられる模倣概念。ここで想定されているのはまやかし(leurre: おとり、疑似餌)の役割をもった擬態の事象(ミミクリー)である*1

 自らは毒を持たない蛇が捕食者をだますために攻撃されると有毒な蛇の構えをとる、という事例も存在するように、動物は「ある固有の行動を選択」することで他の存在者の模倣をおこない、行動によるまやかしを生み出す。いわずもがな知られている限りの動物種において、人類は行動的まやかしの分野をもっとも発達させた種といってもいいだろうが、重要なポイントは人類においては種々の行動的まやかしが「遺伝的に固定されていない」(意識的に生み出される)ということだろう。後に紹介するが、本書ではこの選択的な偽装に「模倣=見せかけ」という言葉があてられている。

b: 触発

 動物行動学あるいは心理学において研究の対象となっているような、反射的な触発によって生じてしまう模倣ないし触発のメカニズム(たとえば赤ん坊は、口を開けたり、舌を突き出したり、唇をぐっと前に押し出したり、あれやこれやの仕方で目の前の顔の動きを再現しようとする)。この、いわば運動的な「感染」(あくびがうつってしまうというような)において、行為と再現する行為のあいだに見られる類似は「まやかし」の機能をもっていない。

c: 観察

 動物行動学において「観察による導入(observational priming)」と呼ばれるもので、同族の行動を観察することで同じ型の行動をするように導かれる状況を指している。「a: 偽装」や「b: 触発」とはことなり、観察による導入のプロセスはいたって選択的であり、シェフェールはこれを厳密な意味でのミメーシスの事例とみなしている。

ある一定の型の行動に身を投じた人々の集団の中にあるとき、われわれはそこから区別されるような行動よりも、むしろ同じ行動をとる傾向にある。「観察による導入」という表現が示すのは、まさしく他者の行動がわれわれ自身の行動のきっかけとしての役割をはたすということに他ならない。(…)私にとって重要なのは、それらのメカニズムに共通の特徴、すなわち再現される行動は、“すでに”模倣者の行動レパートリーの一部となっているという状況が見られるということである。言い換えれば、他者の行動の観察を通じて、(観察者が)それまでにしたことのない行動を模倣によって行うことにはならないということになる。

ジャン=マリー・シェフェール: なぜフィクションか?, 久保昭博訳, 慶應義塾大学出版会, p.62, 2019 

ひとことでまとめれば「誘発された活動」ということになるだろうか。ただ、「b: 触発」が「生得的に誘発された活動」だとすれば、「c: 観察」は「選択的に誘発された活動」ということになると思われる。

d: 学習

 他者を模倣することを通じて、ある行動や活動ができるようになる、ということがある。職人が師匠の行動を模倣してある技術を習得することがまさにそうだし、スポーツや学習などにおいても、こうした模倣による学習という状況はぼくらにとって非常に身近だ。「c: 観察」は他者をきっかけにした活動はありつつも、そこで選択される活動は自らが行うことのできるものに限られていた(いわば過去の活動の再現である)。対して「模倣による学習」は「再生産される行動はすでに獲得された行動のひとつの型を発動させることに限定されてはならず、模倣者たる個人のレパートリーには入っていなかった活動を獲得するという結果をもたらさねばならない。次に、獲得は再現される行動の観察によって生じなければならない(Ibid., p.64)

 「模倣による学習」が有効なのはやはり技術の習得においてであるが、もしかしたらあなたは(プラトンとおなじように)、模倣によって獲得された能力は実用的なノウハウでしかなく、それは真実の認識ではないのだ、と主張したくなるかもしれない。しかし、

このような反論が意味をもつのは、認識それ自体が思弁的あるいは「抽象的」な認識に(不当にも)同一視する限りでしかない。実施のところ、あらゆる実用的なノウハウは、事物が「いかなるものであるか?」ということに関わる認識を内に含んでいるのである。ただこうした認識は、思弁的認識の場合のように切り離されて存在するのではなく、ノウハウの中にはめ込まれているのだ。たとえば、釘を一本正確に打ち込むために、私ーーあるいはむしろ私の手の感覚=運動プログラムをモデル化している表象構造ーーがしなければならないのは、金槌の重さ、釘の硬さや長さ、直径、釘を打ち込む材質の密度等々に関わる大量の情報を統合することである。これらの知を明確なかたちで命題にできないことや、そのほとんどについて言い表すことができそうもないことによって、誤りを犯してはならない。

Ibid., p.65

「模倣による学習」によって習得されるのは、模倣された部分的な行動を自由に再-組織化できるような自律的な判断のモデル(一種のアルゴリズム)であり、それはたんなる表層上の模倣とは区別されなければならないものだ。たとえばタモリのように外国語のニュアンスを見事に再現すること(ハナモゲラ語)と、実際に外国語を操ってコミュニケーションをとることができることはまったくことなる(タモリ的な表層の模倣、「それっぽさ」の再現というのも、ものすごく面白いトピックなのだけど)。ちなみにシェフェールは前者に「模倣=見せかけ(imitation-semblant)」、後者に「模倣=再実例化(imitation-réinstanciation)」という言葉をあてて区別している。今回の分類でいくと、「模倣=見せかけ」は「a: 偽装」に属し、「模倣=再実例化」は「d: 学習」に属す、ということになるだろう。

e: シミュレーション

 ある対象のふるまいや特定の状況下での現象をシミュレーション(そこでの実行原則を再現)する際には、情報学や数学に特化したモデルとは別のミメーシス的なモデルが存在する。

ミメーシスモデルは、類似関係を通じて、認識という目的に応じた相同(homologie)関係を設立するモデルのことである。たとえば土木工学や船舶工学の技師は、予測試験にかけるため、計画中のものを縮小したモデルをしばしば作ることがある。このように橋や高層ビルの縮小モデルを使うことで、当の建造物がどれだけの風に耐えられるのかを送風機のなかで研究できるし、あるいはまた試験水槽のなかで船体の縮小モデルを用いて、これから建造しようという船体の流体力学的抵抗力を試験したりするのである。

Ibid., p.69

建築を学んでいるぼくにとって、この部分が興味深いことはいうまでもない。重要なことはおもにふたつ。まず、シミュレーションによって作り上げられたバーチャルリアリティは認知的な操作が可能であり、パラメーターをあれこれと変化させ、その変化の結果を「観察する」ことで、現実世界にはなんら影響を及ぼすことなく、実際に操作した際に生じうる結果についての知識を得ることができるということ。もうひとつは「それぞれ異なる現実の文脈に起源をもつミメームを結合させることで、純粋にバーチャルな対象、つまりいかなるオリジナルもそれに先だっては存在しない対象の表象を作り上げるためにそれを用いてもよい(Ibid., p.70)ということだ。

人間の発明は、こうして生まれるものである。モデル化に先立たない対象のシミュレーションのこのような予測的利用は、モデルと現実にあいだにある、存在する実体の認知シミュレーションを統御する関係の逆転を含意している。すなわち、典型的な認知シミュレーションにおいては、バーチャルなものが現実を表象するのであるが、投射的シミュレーションとでも呼べるものにおいては、アクチュアル性とバーチャル性の因果関係が逆転が生じているというわけで、クロード・カドズの言うように「現実がフィクション的なものを表象する」のだ。(…)それが代替する現実のように扱われうるシミュレーションを創造することは、おそらく人間意識の本質的能力のひとつなのだ。事実、心的表象を所持する能力として捉えられた意識が、周囲に適応する上で有している利点のひとつは、意識をもつ生物が、それのおかげで(世界、あるいは同族との)相互作用の段取りをシミュレートでき、また直接の経験としてはね返ってくる危険を冒すことなく、それによって起こりそうな結果をテストできるということにある。

 Ibid., pp.70-71

模型というのはいわば縮小した現実の模倣であるわけだが、たとえば建築家はまだ現実には存在してない建築の模型を手探りで作成し、そこで起こりうる現象や活動をシミュレートしようとする(これはプラモとか鉄道模型的な模型のありようとはまるで異なるもので、実はけっこう特殊な「模型」の扱い方かもしれない)。つうじょうミメーシスというのは先だった現実がありそれを再現するという関係、つまりリアル→バーチャルという順序になるわけだけれど、「e: シミュレーション」(模型的ミメーシス)においては逆であり、バーチャルなものが先行し、むしろ“現実がフィクションを模倣する”。これはとてもおもしろい。そしてそうした「模型=代替する現実」をつくる能力は人間のもっている本質的な能力なのだと、シェフェールは述べる。あるモデルを構築することで未来を予測し、段取りをシミュレートすること。たしかにそうだとぼくも同意するし、こうした認知の仕方は建物を経験することに直接的に関係してくるだろうと思われる。建築家は建物を構想するときあらかじめ模型をつくるが、建物を経験する人もまた、「模型=代替する現実」をつくりながら建物のなかを練り歩いている。

 

 「a: 偽装」、「b: 触発」、「c: 観察」、「d: 学習」、「e: シミュレーション」。模倣概念はこれらの5つのタイプに分類できる、ということをこれまでみてきた。これらをざっくりわけると、まず「b: 触発」と「c: 観察」は「模倣(ミメーシス)」によって説明できるようなある行動のパターンということになるだろう。対して「a: 偽装」と「d: 学習」、「e: シミュレーション」は「a': 他者をだます」ことや「d': あるふるまいや技術をコピーする」こと、あるいは「e': あらたな表象をつくりだす」こと、といった目的を実現するために「模倣(ミメーシス)」をひとつの道具として使っている。これらは模倣のバリエーションは最終的な目的や結果こそ違えど、「類似関係」を介したものであるということに関しては共通している。

類似は模倣が生じうるための必要条件であるとしても、もちろん十分条件ではない。あるものが他のあるものに似ているからといって、一方が他方を真似ているということになろうはずもない。たとえばある岩の輪郭がある人の横顔に見えることがあるが、だからといって岩が顔を模倣していることにはならない。言い換えると、模倣を規定する制約は、単なる相似関係の制約よりも強力だということである。生得的な触発メカニズムを紹介したところで確認したように、模倣と言えるためには類似関係が選択によるものでなければならない。(…)ミメーシス行為以前には世界に存在せず、その行為によって存在を与えられる存在を与えられる類似の関係を生み出すことを、模倣というのである。

 Ibid., pp.79-80

 たとえば蛾の羽の図柄が猛禽類の目に「似ている」という事例を考えてみよう。おそらく蛾は猛禽類の目を「意図的に」模倣したのではなくて、突然変異のプロセスのなかで偶然生まれた「蛾の羽の図柄-猛禽類の目」の類似関係が、自然淘汰の圧力を受けて定着したのだと考えられる。「a: 偽装」における擬態(ミミクリー)や「b: 触発」などは、こうした偶然的・遺伝的な理由によって“事後的に”生じた類似関係であるといえるだろう。対して「a: 偽装」における「模倣=見せかけ」(タモリのハナモゲラ語)や「c: 観察」(他者に誘発された活動)、「d: 学習」(模倣による技術の習得)、「e: シミュレーション」(模型制作)などは“意図的に”最初からミメーシスな目的をもって生じた類似関係であり、いわば「制作された模倣関係」である。フィクションはこうした意図的・制作的なミメーシスによって生み出される。

*1:ミミクリーとかいわれると、どうしてもドラクエのミミックを思いだしてしまうけれど、あれぞまさに擬態=偽装のシンボルである。ちなみにダークソウルシリーズにもミミックはでてくるのだけど、こっちはもっと邪悪です。こわいです。