声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

JULY.5,2019

 先週からぼくの部屋ににある唯一の花瓶(緑色のガラスでできている)に生けられていた──いや、そこで現に生きていたというべきか──薄緑色の紫陽花は、もう枯れてしまった。徐々に茶色くなっていって頭を垂れていく様をみるのは少々痛々しかった。窓辺に置いた花瓶からガラスいちまい隔てて外側にあるプランターには、しっかりと根をはった植物たちが元気に育っているので、よけいに対比されて痛々しかった。来年は鉢植えで紫陽花を育てようと密かに決意した。

 緑色の花というのは美しいなと思った。あまり意識したことはなかったけれど、花瓶で生きているその花の色をみているうちに、緑色の花は葉っぱと差が少ないというか、いっけんすると見分けがつかない感じがあり、そう感じたのだった。注意して街を歩いていると、紫陽花やオオデマリなど、大半は白い色をした花のなかに薄緑色の花が混じっていることに気がつく。ピンク色の紫陽花のなかに紫色の紫陽花と青色の紫陽花が混じっているように、白色のなかに緑色が混じっている。あまり意識したことはなかったけど。

 調べていると、「葉化病」という花の病気があるらしく、昨年は紫陽花の葉化病が流行ったみたいだ。これは花の色が単に緑色になるのではなく、ファイトプラズマという細菌が原因で文字通り花が葉っぱに変わってしまう病気らしい。品種として花が緑色であるものと、病気にかかってしまって緑色になってしまっているもの(葉っぱになりかけている花)を見分けることはぼくには難しいのだが、しかし緑色の花というのはそういう危うさも持っているんだなと、ひとまず思った。そして、花と葉っぱという対照的な器官は実は交換可能というか、互いに変身可能な関係性にあるんだなということに、あらためてびっくりしたのだった。花という器官は葉っぱが変形したものである、という花の進化史を、緑色の花と葉化病のあいだの危うい拮抗関係のなかに感じるのである。そして、セブンでかったホットカフェラテ(R)を飲みながら、通学路に咲いている紫陽花を眺めてこういうことを考えていると、電車に乗り遅れるのである(今朝のはなし)

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