声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨建築と写真を中心に、音楽、映画、美術、人文学などについて書いている備忘録です。

JULY.12,2019_許される嘘の塩梅

  今年公開されたコードギアスの新作「コードギアス  復活のルルーシュ」は劇場では見逃していたのだけど(え、復活するの?まじで?とはおもっていたのだが)、そろそろDVDもでているだろうということで、作業しながらAmazonプライムでコードギアスの前劇場版3部作を流しみていた(本当に作業してた?)。しかし勝手に思い込んでいただけでDVDは9月ごろのリリースらしく、すっかり生殺しである。みにいっておけばよかった。 

  コードギアスはリアルタイムでみた以来なので、実に10年以上ぶりにみることになったのだが(途中でスパロボはさんでいるけど)、じゅうぶん楽しめた。しかし全50話を映画3本に圧縮するための再編集により、展開がサクサクすぎる感じになっているというか、キャラの葛藤とかコードギアスらしい群像劇感がすべてあっさり風味になっていて、そこは気になった。とくにルルーシュのゼロとして振る舞いがまさに厨二病的に、必要以上に浮いてしまっているようにみえて個人的には残念であった。

  しかしそれは、ぼくがAmazonプライムとMacbookを用いて部屋で一人で鑑賞してしまったのがよくなかったのかもしれない。フィクションで許される嘘の塩梅というのは、往々にしてメディウムの特性と鑑賞の体勢に左右される。たとえば映画だと許される嘘と演劇だと許される嘘が違ったり、あるいは映画館での、特定の体勢を強いられかつ暗い空間と巨大なスクリーンを前にしてしっかりと物語に没入するような鑑賞経験では許せていた演出が、部屋でカジュアルに観る際には許せなくなってしまうこともあるだろう。その逆もありうる(テレビを流し見していた際には愉快であったバラエティのノリが、映画館でやられると急にサムく感じたり)。暗い部屋で深夜一人でテレビデオを使ってみた「リング」がその内容と鑑賞形式のシンクロによって異常な恐怖体験につながるように(実体験)、内容と観るときの「体勢」は決して切り離せないはずだ。今回のコードギアス劇場版3部作で感じた違和感も、映画館で思いっきり没入して観ていたらそんなに気にならなかったかもしれない。今回は作業しながらのながら見だったからなぁ(本当に作業してた?)

  いや、もしかしたらルルーシュのあの厨二感はアニメ放映時から意図的に過剰に表現されていたのであって、ネットとかではいじられていたのかもしれない。しかし、少なくとも中学生のときにリアルタイムで観ていたぼくは、そこになんの違和感も感じずに、素直にカッコイイとおもってしまっていた。おそろしいことである。ところでルルーシュは嘘(ギアス)の塩梅がヘタで、つねに許されぬ嘘の塩梅を選択してしまう。しかし、その全然うまくやれていない部分が誤解の連鎖を生み、物語はドライブする。その感じは改めて、とても面白かった。

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(PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm/F2.4, FUJI PRO400H)