声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨Takahiro Ohmura

OCT.28,2019_ベランダの政治性

今月の住宅特集の展覧会レビューのページで、SDレビュー2019に出展中の「倉賀野駅前の別棟」を取り上げていただいております(新建築住宅特集2019年11月号, p.158)。ありがたや。

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関西でとった写真④

 

 梅田スカイビルで合流後、タトアーキテクツ設計の「六甲の住居」を外観だけ見学させていただいた。地階が「透明な倉庫」のような状態でモノに溢れていてたいへん魅力的だったのだけど、なるほど確かにこういう状況をゆるすような場所だなと行ってみて理解した。小高い山のうえの森を切り開いたような敷地で、まわりの目も気にならず、眺望も素晴らしい。庭のなかに即物的な鉄骨のフレームとガラス、そして日常品たちがぽんと置かれている状況はたいへん魅力的だったが、個人的な身体感覚としてはあと300-500mmくらい上階のレベルが低ければ、と感じた(CH3000前後であれば、あの場所を住宅の延長として積極的に使おうと、ぼくなら思うだろうなと)。張り出したバルコニーが水平構面を構成し、手すりがフィーレンディールトラスとして効いている(たぶん)ので、地階の天井には梁が出てこず、平坦なデッキプレートが宙に浮いているように見える。天井というより、屋根。この天井の印象が地階の納屋感をかなり強めているのだろうと思うのだけれど、ただ、天井に見えないという印象はこの天井高があってこそであり、さきほどぼくが述べたように300-500mm下げてしまうと、こうは見えてこない。寸法の設定というのは難しいが、おもしろい。

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△ タトアーキテクツ: 六甲の住居, 2012, 兵庫

 

 その後、dot architectsの事務所を見学させていただいてから、「千鳥文化」へ。ずっといってみたかった。歴史的にも文化的にもとりわけ価値があるわけでもなさそうな住宅を、文化人類学的な視点から評価するその仕方を、モノとして見せつけられた。とてもよかったし共感しかしなかったのだが、微妙に傾いてる既存躯体に合わせて切り欠いた新設梁(!!)を挿入したりと、ブリコラージュ的に作られたフニャフニャの既存躯体を綿密に解析・記録し、そこに丁寧に構造補強を接ぎ木(graft)するdot architectsの手法は、もうほとんど狂気だと思った。その狂気じみた作業が、既成の価値基準ではまったく相手にされないようなボロボロの建物に対して差し向けられている、ということが、唯一無二の場の雰囲気を作っている。迫力がある。なんであれ受け入れることができるような強さと懐の深さを生んでいる。しかし、安易に真似することはできない。

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△ dot architects: 千鳥文化, 2017, 大阪

 ぼくはこの建物をみながら、意外にも、ロースを思い出していた。

 結論を言おう。将来の建築家が守るべきは、まずみずから現場に赴き職人とともに仕事をしなければならないこと、そしてかならず古典の教養を身につけることである。(……)さらに将来の建築家はジェントルマンであらねばならない。物を盗まない人間はみな信用できるという時代ではない。正義の人として名高い古代ギリシャの政治家アリステイデスは貧しかったから賛美されているのではなく、清廉潔白だったからいまに語り継がれているのである。あたりまえの話だろう。正しい、間違っているという判断についてわれわれはかつてより敏感になる一方である。正しさを突きつめれば建築家は材料に関して嘘をついてはならないということになる。建築家みずからがイミテーションではなく本物の材料を選びだし施工することを徹底すれば、その嘘は避けられる。現場の職人は建築家のように材料で嘘をつくすべを知らない。この嘘はただ図面を描いている建築家によってはじめて持ちこまれたものだ。だが建築家はあらゆる材料に通じて同じように使いこなせるわけではないため(実際、誰でもただひとつの材料しか使いこなせない)、自分の得意とする材料をひとつに絞り専門的に特化すればいいのだ。(……)だが、さまざまな材料が組み合わさって、専門分野の異なる建築家が共同で仕事をすることになった場合、建物全体を貫く芸術的統一性はどう保たれるのか、と疑問に思うむきもあるだろう。そんなことにこだわる必要はない、と私は考えている。

アドルフ・ロース: 建築における新旧ふたつの動向(1898), 『ポチョムキン都市』, 加藤淳訳 / 鈴木了二・中谷礼仁監修. みすず書房, pp. 59-60, 2017

ロースのいう素材にまつわる諸々の判断が、「千鳥文化」の設計作業において要請されたであろうことは疑いようがない。人間に対して清廉潔白であるということを超えて、素材に対して清廉潔白であるということが、ここでロースが問題にしていることだ。何を残し、何を捨て、何を接ぐのか。設計者にはある種の倫理感、あるいは美学が、求められる。このとき、きわめて政治的な行為として、建物の設計が改めて問い直されることになる。

 ぼくはベランダで植物を育てている。プランターからはときどき、雑草が生えてくる。この雑草もなかなかかわいくって、思わず水をあげてしまう。毎日少しずつ育っていく雑草をみながら、こいつらを「雑草」とひとくくり呼ぶのはなんだか失礼な気がしてきて、草の種類を調べると、もちろんひとつひとつにちゃんと名前がある。でも、このまま育ってしまえばプランターの植物も弱ってしまうだろうから、しょうがなくその草を抜く。葉っぱの表面に集まっているアブラムシも、ほおっておけば草が枯れてしまうと、しょうがなく殺す(様子をみながらほおっておくときもあるけれど)。でもときおり、ぼくに目の前の草や虫を殺すという判断を下す(命を取捨選択する)権利があるのかと不安になる。ベランダはこのとき、ぼくと虫・草・鳥らのあいだでの熾烈な政治的闘争の場となる。何を生かし、何を殺し、何を残すのかという判断、は、何によって可能になるのか。「理由」だけではすべてを判断できない。理性は雑草や害虫を殺せと命ずるが、しかし、プランターから生えてくるカタバミを愛おしいと思う感情をなかったことにはできない。とはいえ何も判断せずほおっておいたら、全滅してしてしまうかもしれない。ぼくはひとまず、雑草の名とアブラムシの生態を調べる。このまま殺さずに残すことができるか、ギリギリのラインを探る。生態学的な知識(理性的な判断)、生命への責任(倫理的な判断)、そしてぼく自身がプランターをどんな状態にしたいか(美的な判断)、がバランスする地点を探る。そうしてはじめて、草を抜くか抜かないか、を判断することができる。こういうことがあるので、国会中継をみながら、うちのベランダのほうがよっぽど政治的な場じゃないかと、ぼくはよく思う。

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 「千鳥文化」でおこなわれていることは、毎朝ベランダで繰り広げられるこの葛藤に似ている(とっても個人的な感覚で、もうしわけないのだけれど)。これはロースが建築家に「正しさ」を求める態度とそう遠く離れてはいない、と思われる。「千鳥文化」では、通常のリノベーションというものを超えて、過去の職人たちとの緊密なやりとりがおこなわれている。モノに刻まれた作り手の癖や価値基準を読み取りながら、時間をぴょんぴょん飛び越えて、過去の人々とディスカッションする、そうした共同の場がここで立ち上げられているのであり、上述した素材にまつわる政治的判断は、ひとまずこの共同性の立ち上げによって可能になっている。

 「雑草」とひとくくりにするのではなく、ひとつひとつの草の名を調べること。まずそこから始まるのだ。dot architectsが設計者として果たそうとしている倫理性は、たぶんこの地点にある。紛れもなくこのような態度こそ、「千鳥文化」の空間の質を決定する最大の要因なのではないかと、ぼくには思われる。

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PENTAX 67, SMC TAKUMAR 6×7 105mm/F2.4, FUJI PRO400H