声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨Takahiro Ohmura

JAN.6,2020_棒馬について / 抽象化のふたつのモデル

 『棒馬考』と題された、エルンスト・ゴンブリッチ(1909 - 2001)によるちょっと変わった論考がある。1951年に発表されたこのテキストは表題の通り「棒馬」について考察したもの、なのだけれど、そもそも棒馬(hobby horse)って何って話だ。棒馬とは文字通り馬を模した棒であり、子供がまたがって遊ぶための遊具のことである。ぼくの幼少期には身の回りになかったけれど、もしかしたら実際に棒馬で遊んだことがある人もいるかもしれない。しかしもちろん、美術史家であるゴンブリッチがたんに遊具の解説をする、ということはありえない。この論考では棒馬という遊具を通して、描写と代替という「表象」(representation)のふたつの側面について、ある事物が何かの代替物になる際のその道筋について、そして造形行為がどういった意味と機能をもつのかについて、論が展開される。

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△ 棒馬(hobby horse)*1

 

この論文の主題はごくありふれた棒馬(ホビーホース)である。これは隠喩的なものでも、また純粋に空想的なものでもない。少なくともせいぜいのところスウィフトがほうきの柄について自分の考えを書いているのと似た程度のものである。普通棒馬は子供部屋の隅に甘んじて置かれていて、美的な野心とはまるで縁がない。実際、無用な装飾は拒否して、ほうきの柄の本体と、ちょうどその上端の目印となって手綱をつける場所として役立っている彫刻された馬の頭の部分だけあればよしとしている。こんなものにどう話しかけたらよいのか。これを「馬のイメージ」として描写すべきだろうか。『ポケット・オックスフォード辞典』の編集者たちは多分同意しなかったであろう。彼らは「イメージ」を「対象の外形の模倣 imitation of object's external form」と定義しており、たしかに棒馬では馬の「外形」は模倣されていないからである。「外形」については、それが実に長い間われわれの美学的言語を支配してきたギリシャの哲学的伝統の定義しにくい遺物であるだけに、いっそう都合が悪いと言えるかもしれない。幸い、この辞典にはもっと融通がききそうな別の言葉──representation──がある。その説明によれば、「represent すること」は「叙述、描写、想像などによって形象や場所の類似像を心や感覚に思い起こさせること、類似像として役立つこと、あるいはそうした意味を表すこと……、……を表すこと(stand for……)、代表すること、……の代わりをすること、……の代替物となる(be substitute for)」などの意味で用いられうるものである。では、馬の描写なのか。明らかにそうではない。馬の代替物なのか。さよう。その通りである。おそらく、この文言のなかには隠れた意味がある。

E. H. ゴンブリッチ: 棒馬考, 二見史郎・谷川渥・横山勝彦訳, 勁草書房, 1994(完訳版), pp.8-9.

  たとえば画家がレモンを書いたとしよう。画家はレモンの外形を模倣し、レモンの外形を模して描かれたモノを観客が見る。観客はこのとき、その描かれたモノの形(フォーム)によって「何が描かれているのか」(つまりはその形がレモンであるということ)を知る。このとき、「レモンのイメージ」は表現された対象の忠実な模倣=コピーであるが、同時に、あるていどの「抽象」を含むものになるだろう。画家は輪郭と色彩を抽象し、3次元から2次元を抽出する。彫刻家は現実の三次元の形を抽象し、色彩のない別の形をそこから抽出する。対象に忠実でありながら、ある種の情報量の削減──いわば要約──が、そこではおこなわれる。すなわち、絵や彫刻は外部の世界の「描写」であり、より情報量の多い現実の世界が表現以前に存在している、と。こうした考えを徹底して合理化した先に科学的遠近法があり、額縁という約束ごとは「窓の向こう側の世界」の実在性をますます強固なものとする。なるほど、ぼくらは「表現すること」に関するこうした主題とその描写の関係性を当たり前に受容している。しかしゴンブリッチは本論考で、こうした「表現」(representation)に関する伝統的見解に疑義を投げかける。子供が棒馬を指して「馬だ!」というのは、棒馬が特定の馬を忠実に描写した肖像画であるからではないし、馬らしさを一般化した形態だからでもないし、ましてはそれが概念としての馬を意味する記号であるから、でもない。棒馬は明らかに現実の馬の忠実な模倣=コピーではない、が、とはいえそれは馬の代替物ではある。子供が棒馬で遊ぶとき、間違いなくそれは馬として“機能”している。棒馬が馬の「描写」でないとすれば、イメージが指示対象(reference)をもつという仮定はここでは成立しない、だけではなく、

ほかにも用心せねばならぬ誤解がある。われわれはよく「表現」(representation)という観念を別の平面にずらすことによってこの観念を保とうと努める。図像を外部世界のモチーフに帰すことができないような場合、われわれはそれを画家の内面の世界のモチーフの描写と受け取る。原始美術と近代美術の双方に対して批判的な文章も、また批判的でない文章も、その多くはこうした思い込みを露呈している。しかし、描写の自然主義的観念を夢や幻想──無意識的メージはむろんのこと──に対して適用すればさまざまな疑義を招くことになる。棒馬は馬についてのわれわれの観念を描写しているわけではない。

Ibid., pp.13-14.

参照物(モチーフ)の模倣でもなく、作者の内面を代弁するわけでもない、そういうたぐいの「表現」がありうる、と。たしかに棒馬が「作者の内面性の吐露」であると考えるのはかなり難しいし、馬をモチーフにした造形物であるならば、その模倣っぷりはあまりに不徹底である(というかむしろ、“あえて不徹底なままにされている”と言ったほうが正確だろう)。とするならば、棒馬が馬の表現=描写でなく、馬の表現=代替物である所以とはいったいなんなのだろうか。ここでは対象の向こう側に別の世界を見出すことでもなく、対象の内側に作者の内面性を見出すのでもなく、対象そのものの「かたち」が備えた機能や効果をできるだけ素朴に、そのまま受け止める態度が要請される。

「最初の」棒馬にはおそらく像といえるようなものは全くなかったろう。ただの棒が馬と言われたのはそれに乗ることができたからだった。比較項(tertium comparationis)は形よりも機能の方だった。もっと正確に言うなら、機能を果たすための──つまり、「乗用できる」物体というための最低限の要件を満たす形体面があれば馬としての役を演ずることができたわけである。そうであるとすれば、われわれは普通には閉じて封鎖されていると見なされている境界を越えることもできよう。というのも、こうした意味では「代替物」は人間にも動物にも共通な生物的機能に深く立ち入っているからである。猫はまるで鼠であるかのようにボールを追いかける。赤ちゃんは自分の親指をまるで乳房みたいに吸う。ある意味でボールは猫にとってネズミを「表わす(represent)」し、親指は赤ちゃんにとって乳房を「表わす」のである。しかし、ここでもまた「表現」は機能の最小限の要件をこえてまで形の類似性に頼っているわけではない。ボールは追いかけることができるということを除けば鼠とは何の共通性もない。親指は吸える点以外に乳房と共通するところは何もない。それらは「代替物」として生物の何らかの要求を満たしているわけである。それらは「代替物」として生物の何らかの要求を満たしているわけである。それらは生物的もしくは心理的な錠前にたまたまぴったり合う鍵であり、また、それらは硬貨投入口に入れると機械が動き出すあのコインを模造しているともいえる。(……)「芸術的の起源」が一般の話題となることはなくなった。しかし、棒馬の起源は考察の主題として認められてもよいだろう。棒にまたがってあちこち得意げに乗り回したある人物が遊びごころか呪術的気分で──この両者の区別できたためしがあったろうか──「実際の」手綱を思い切ってつけてみた、そしてついには端の頭の方に二つの目をつけた、と仮定してみよう。少し草をつければたてがみとして通用できたろう。かくしてわれらが発明家は「馬を持った」のである。彼は一頭作り出したのである。(……)彼は自分の馬を誰かに見せたいと望んだわけではないだろう。彼がギャロップで駆け回っているとき、この馬はまさに彼の空想の焦点として役立ったわけである。

Ibid., pp.14-16

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Israhel van Meckenem: Seven Children at Play, c. 1490 *2

 まずはじめにあったのは、馬のようにまたがることができるという棒の性質である。そして棒馬が発明されたときには、馬を模倣しようという意志ではなく、お尻や足、手と棒との物理的な交渉(棒を用いた様々な遊び)こそが先行していたはずだ。現実の馬から馬のカリカチュアへの抽象化(かたちの抽出)、ではなく、きわめて具体的な接触・感知に基づく認識や判断が先んじ、それによって人間が棒=馬にまたがっているという状況が生じる。木の棒はそれにまたがる人間とセットでひとつのオブジェクトとなり、両者は共生して、棒は馬へと“生成”する。このときの棒と子供の関係は道具もしくは罠 *3と身体の関係に限りなく近い。たとえばハイデガーは道具を道具としてあらしめる性質(道具性)を次のように輪郭づけた。

道具を使用し操作する交渉は盲目ではなく、それには固有の見方がそなわっていて、これが操作をみちびき、それに特有の即物性を与えている。(……)道具=用具的存在者との様々な交渉は、道具が《……するためにある》という多様な指示によって規定されている。

M. ハイデガー: 存在と時間, 細谷貞雄訳, 筑摩書房, 1994, §15

道具にはある操作を導く特有の即物性があり、各々の道具は「指示」が複雑に交錯するネットワーク(道具連関)にはめ込まれている。たとえば金槌はある具体的な身体行為(取ってを掴み、遠心力を使って勢いをつけ、先端の金属部を対象にぶつける)を導き、目的に応じて他の道具と連関する。家の修繕をしたり、時計をつくったり、靴を制作したりと、金槌という道具に潜在している目的はひとつではない。道具はつねに複数の使用可能性に開かれている。そしてこの「使用可能性が向けられているところ=用途」が何なのかによって、金槌と他のオブジェクトの連関は自在に解体・編成する。たとえば金槌Aと金槌Bと金槌Cがはサイズも色も素材も形態もバラバラだが、しかし、それらが導く身体行為が同一で、釘を打つという機能を満たすのであれば、いずれの金槌も本物の金槌であるとみなしうる。すなわち道具を道具たらしめているのは見かけ上の類似性ではなく、あくまで具体的な身体行為を随伴した機能なのである。

 ただの棒が馬となるのは、またがって遊ぶという行為を棒が可能にしているからだ。木の棒は子供が騎士になるための道具なのであり、そこではきわめて具体的な物質と身体との接触・交渉がおこなわれていて、その機能上の類似によってこそ棒は馬とみなされるのである。1000年以上の歴史をもつ棒馬という遊具の造形が不完全であるように見えるのは、棒馬にまたがった使用者の足がちょうど馬の前足のように見えてくるように、使用されたときにはじめて「馬が現れる」という仕掛けがあるからだ。ゴンブリッチが子供と棒馬の関係を「錠前と鍵」に例えていたことを思い出そう。錠前と鍵はわざわざ不完全なものとして製作されたオブジェクトだが、両者がぴったりと一体化するとき、ロックの開け締めという運動=機構が発生する。棒馬は不完全な造形であるがゆえに「またがる」という行為を身体から引き出し、複数の不完全なオブジェクトの共生が新しいイメージや機能を生起させる。このとき身体の一部は──金槌にとっての釘や木材と同じように──新たなイメージや機能の構成材として投げ出されている。

 

  *

 

 ではなぜ棒馬の発明者は、棒に目やたてがみ、手綱を付ける必要があったのだろうか。棒のままで別によかったのではないか。一見すると中途半端に見える棒馬の「造形行為」はなぜ要請されたのであろうか。

こうしてみると、一本の棒がわれらの棒馬になるためには二つの条件が必要だったということになる。第一はその形がちょうど馬乗りできるようなものであったこと。第二に──恐らくこれが決定的なものであるが──乗ることが重要だったということである。さらに幸運にも、どうして馬がそうした欲求や熱望の焦点となることができたかを理解するのに大した努力はいらない。というのも、われわれの言語は騎士道にかなうことがとりもなおさず馬好きということだった封建時代の昔に形造られた隠喩を依然として担っているからである。そうした時代背景では馬を表現せねばならなかったその同じ棒が今度は別の背景のなかで何かほかのものの代替物となったのであろう。それは剣にも、王笏(しゃく)にも、あるいは──祖先崇拝の文脈では、死んだ族長を表現する呪物でもなったかもしれない。

ゴンブリッチ: 棒馬考, pp.21-22

ぼくが今回、ゴンブリッチの『棒馬考』でとりわけ注目したいと思ったのはこの記述である。ここでちらっと取り上げられているが、木の棒は馬にもなるし、剣にもなるし、王笏にもなるし、老人のための杖にもなるし、柱にもなるなるし、儀礼のための呪物にもなるし、境界線にもなる。遊びの役柄、その時々での「お約束」に応じて、棒は「別の背景のなかで何かほかのものの代替物となる」ことが可能なのである。ゴンブリッチはこの点に関してこれ以上の記述を残しておらず、これまでの議論を美術論へと(たとえばジョット、マネ、レンブラントのほうへと)接続して本論考を〆ている *4。が、個人的にはもう少し深読みする余地が残された箇所だと思えた。

 なぜ造形行為が必要とされたのか、という問いに戻ろう。端的にそれは、棒というオブジェクトが使用可能性に開かれすぎていたからだと思われる。棒につけられた馬の顔や手綱は、棒の道具としての使用可能性を「制限」するために付与されたのではないか、ということだ。道具連関のネットワークに過剰に接続された「役に立つ」道具である木の棒は、造形行為が施されることで、ある特定の行為(またがるということ)にその機能が限定される。造形行為とそれによるネットワークの剪定は、空想の焦点をより明確にし、棒=馬という「見立て」を他者と容易に共有可能なものとする、だけではなく、棒馬はたんなる棒以上に子供たちを魅惑し、おもわずまたがってしまうという具体的な動きを誘引するかもしれない。遊びのなかで、たんなる木の棒が剣や杖、呪物や馬になることは、かなりのところ文脈に依存する。たとえば「騎士ごっこ」とような遊びのコンテクストがなければ木の棒から「馬」という機能を引き出すことは難しいのではないかと思われる。手綱やたてがみの付与は、つまるところその棒が馬であることの宣言であり、これによって棒馬は文脈への依存を脱するのである。さまざまな機能をもつ木の棒とは対照的に、棒馬はほとんどの子供が同じような仕方で遊ぶだろう。金槌と同様に、ひと目で使い方がわかるし、実際に誰であれ同じように行為する。道具からの触発によって、動きが生起し、潜在していた身体性が具現化する。この問題をパラフレーズすれば、ある特定の文脈を脱しても成立するという脱文脈化とその後の再文脈化の契機としての「自律」をいかに実装するか、ということになるだろう(例えば建築がこれ以外の理由で自律的になることは個人的には認められない)。ある中性的な素材が、誰もがおもわず同じように使ってしまうような身体性を備えた道具となり、文脈に関わらずスタンドアローンで駆動し、まったく想定もしていなかった別の文脈に再接続され、もしかしたらそこから新しい遊びが生みだされるかもしれない、と、そうした循環の前段階として、ネットワークの剪定(のための具体的なの造形の実行)は必須なのだ。

 

  *

 

 抽象化とは対象から注目すべき要素だけを残し、他の要素を捨て去って、別のかたちや意味を抽出するという行為である。では棒馬は現実の馬を抽象化した形態なのだろうか。そういう面もあるだろう。しかしそれにしては「外形の模倣」は不徹底であり、どこか腑に落ちない。従来の抽象化のモデル(指示対象の要約)では、棒馬を説明し切ることはできないのではないか。ゴンブリッチが投げかけたのはこのような疑義である(とぼくは汲み取った)。ここから先はぼくの仮説なのだが、棒馬は「現実の馬を抽象化した形態」ではなく、「現実の棒を抽象化した形態」なのではないだろうか。このとき、「抽象化」の内実は激変することになる。

 棒馬はただの棒よりも具体的なかたちをしているし、「棒の抽象化された形態」と言われてもピンとこないかもしれない(抽象化された木の棒というと、よりまっすぐシンプルな形態をもつ鉄の棒みたいなものを想像するかもしれない)。棒馬において問題になっている抽象作用は、視覚的な形態の抽象化というよりも、むしろネットワークの抽象化なのだとぼくは主張したいのだ。棒の使い方を「またがること」に限定するために「たてがみをつける」という造形行為が要請されたとすれば、ここで抽象(要素の削減と抽出)の対象となっているのは見かけの形態ではなく、目に見えないネットワークのほうである。現実の馬から棒馬への抽象化とは、ようは見かけ上の形態の「要約」だ。ここでは、たてがみや手綱といった部分が馬という全体を代表する要素となる。他方、現実の棒から棒馬への抽象化とは、道具のもつ使用可能性の「彫琢=展開」(Elaboration)であり、道具連関のネットワークを剪定するような行為である*5。ここではさしあたり、前者を「抽象化-要約モデル」、後者を「抽象化-彫琢モデル」と呼ぶことにしよう。抽象化-要約モデルでは見かけ上のフォームはよりシンプルなものになるが、対する抽象化-彫琢モデルでは視覚的な形態はむしろより具体的になって、接触・感知(すなわち触覚性)に基づく道具としての使用可能性が限定的になる。これはいわば役に立つものを役に立たないものにする技術、である。棒馬という遊具は抽象化-要約モデルと抽象化-彫琢モデルのどちらとも取れるちょうどいい塩梅の分析対象であり、これに気づいたときに「ゴンブリッチ先生まじパネエっす……」と個人的に感動したのだった。

 建築にしても芸術にしても、普通「抽象化」というと前者の抽象化-要約モデルのほうを指している、と思われる。しかしぼくにとって興味深いのは抽象化-彫琢モデルのほうなのだ。道具的な連関のなかにある事物同士の関係性を吟味しつつ、そこでのネットワークを切り離したり結びつけたりするための具体的な技術としての「抽象化」を改めて考えてみたい。事物の使用可能性を抽象し、道具連関のネットワークを彫琢するための技術を探求すること。少なくとも建築において造形行為というものが現代的な意味をもつとすれば、それによって「ネットワークの剪定」(既存のネットワークへの介入)が可能になるからである。だからこそ、「かたちを与える」ことを軽んじるような態度には、なんとしても抵抗したい。

 できる限り多くのネットワークに「接続」したほうがいい、とは、ぼくは思わない。無関係なものが隣り合うような、すべてがバラバラになってしまうような、そうした世界の際限なき断片化は、むしろネットワークへの過剰な接続が原因で生じてしまうのではないか。あらゆるものへの平等な視点は、個別の問題を、身体行為を含みこんだ具体性を、しばしば取り逃してしまうのではないか。言うまでもなくいろいろな用途がある棒も大事なのだけれど、それと同じくらい、子供たちがおもわずまたがりたくなるような棒馬を創造することも大切だと思う。だからこそ、少なくとも今自分が考えているのは、がんじがらめの諸事物の関係性をいったんときほぐし、特定の機能(使用可能性)と身体的な反応を引き出すような「かたち」を再考すること、だ。建設の産業化がますます加速するなかで、建築家の個々の実践や作家性というものが未だに意味をもつとすれば、それは彼/彼女らが「棒にたてがみをつける」勇気と決意をもつときにのみである、とぼくは思う。

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△ 抽象化のふたつのモデルに関するメモ

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*1:source: https://en.wiktionary.org/wiki/File:Hobby-Horse.jpg

*2:source: https://artsandculture.google.com/asset/seven-children-at-play-israhel-van-meckenem/1QEWfYRWJUB6gw

*3:罠と身体の関係については以下のような記述がある。

形の「表現的(representational)」機能についての研究で最近相当な進歩をみせている分野がある。それは動物心理学の分野である。(……)ツェツェバエをとらえるわなとしては牛の極めて単純な輪郭さえあれば充分と思われる。何とか動きのある誘引の仕掛けを作ればハエを「欺く」ことができるからである。ハエにとって粗製のわなは「意味のある」──つまり、生物学的意味のある──形を備えているわけである。この種の視覚的刺激は動物界では重要な役割を演じているようである。動物たちの反応の仕方を見ながら「替玉=ダミー」の形を修正することによって、なおも特定の反応を触発することができた「最低限のイメージ」というものが確認されてきたのである。(……)こうした生物学的な意味での「イメージ」は物の外形の模倣ではなく、ある限定された、その場に適した様相の模倣である。この点においてこそ広範囲の探究の場が開てくるものと思われる。人間といえどもこうした型の反応から免れてはいないからである。”(ゴンブリッチ: 棒馬考, pp.17-19.)

罠-身体という視点でかたちのもつ働きに注目するとき、装飾/構造といった二分法はもはや意味をなさなくなるだろう。むしろ装飾のもつ身体の動きを誘発する働きこそが考察されなければいけないかもしれない。たとえば平倉圭の著書『かたちは思考する: 芸術制作の分析』(東京大学出版会, 2019)では、芸術制作を通して、こうしたかたちのもつ「巻き込み」のちからが精密に分析されている。

*4:子供と棒馬の関係は錠前と鍵の関係に似ていて、そこでは身体の一部が(錠前に対する鍵のように)イメージや機構の構成材として投げ出されている、ということを上記で指摘したが、ゴンブリッチよればこうした「身体の構成材化」は芸術の観賞経験においてもみられる。

自分たちの概念的知識を振り払おうと努め、意識して自分の作品の観察者になろうとして、たえず後ろに下がっては自分たちが制作した図像と目にしている印象とをつき合わせて比べたりしている画家たち──これらの画家たちは創造の負担の一部を観客に転嫁することによってのみ自分たちのねらいを達成できたのである。というのも、もし今度はわれわれの方が後ろに下がって見るように言われて、印象派風の風景の色班のかたまりが「ぱっと生気を帯びて」何かに見えてくるとすれば、そう解するよりほかにないからである。これは、画家がわれわれのすぐにほのめかしを察知する力や、文脈を読みとったり、画家の誘導で自分たちの概念的イメージを思い浮かべたりする力などを頼りにしていることを意味している。マネの絵のなかのぼけたかたまりは馬を表しているが、これもわれわれの棒馬と同じく馬の外形の模倣とはいえない。しかし、マネの処理が巧みなために──むろんわれわれの側の連携も加わってのことであるが──それは馬のイメージをわれわれに喚起するのである。”(Ibid., pp.28-29.)

観賞経験において観客の身体の一部が作品の構成材と化してしまうという現象は以下の記事でも言及している。

https://www.ohmura-takahiro.com/entry/20191129/1575029863

https://www.ohmura-takahiro.com/entry/20190717/1563368400

*5:「彫琢=展開」という言葉は人類学者であるM. ストラザーンの著書『部分的つながり』から引用した。ストラザーンは本書で、メラネシアの人々は無限に続きうるアナロジーのネットワークをむしろ適度に「カット」することで、特定のイメージを喚起するような形態(フィギュア=図)を析出していることを示した。

https://note.com/tkhrohmr/n/n6d373bb5d715

https://note.com/tkhrohmr/n/nd99aae0c42a1