声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨Takahiro Ohmura

FEB.20,2020_展示のカイソウ

 帰りのバスまでの待ち時間で書いた、豊田市美術館で開催中の岡崎乾二郎の個展「視覚のカイソウ」で感じたことのメモ(ほんとうにただの備忘録なので箇条書きですが)。展示の感想をブログに残すこと実は極稀なのだけれど、映画にしろ、建築にしろ、文学にしろ、美術にしろ、「いいものをみた」で終わらしてはいけないような気がする作家というのはどのジャンルにもいて、岡崎さんは自分にとってはそういう存在なのかもしれない。謎のモチベーションに突き動かされて『抽象の力』の感想書いたりしたし*1。それにしても、まだまとまっていない、吟味もしていないメモを開示するというのはなんとも恥ずかしいなと思う。

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◯「あかさかみつけ」

・「あかさかみつけ」が今回の展示の第一目標だった。手のひらサイズの小さなこのオブジェクトが、一定の間隔でおおきな展示室の外周をぐるっと埋め尽くしている。これらはすべておなじかたち(タトリン、そしてカロという立体作品の系譜を感じる)だが、ひとつひとつ異なる仕方で彩色されている。絵画的な問題も、彫刻的な問題も、どちらも包摂しているオブジェクト群だと感じる。いや、絵画でも彫刻でもなく、あくまでこれはレリーフなのだ。

・形態(構成)について。見る角度や位置によって驚くほどその見え方が変わる。どの角度からみても見飽きない。この「位置による見え方の変化」があるからこそ(視点を動かなさいと全貌を把握できない形態だからこそ)、壁にずらーっと並べられてるレリーフを見るとき、「すべての位置・角度からの見え」が飛び込んでくるような開放感が、表と裏が同時に見えるような透明感が、ある。ひとつのオブジェクトのあらゆる角度からの「見え」が一挙に把握できるような感触。観賞位置による知覚経験の変化、の相対化。これが、この形態=構成の空間的な効果として著しい。それは「一つ」の形が「多数」の見え方を用意すること(視点=形態)、そしてそれが一定の間隔で配置され、壁面を埋め尽くしていること、から生じていることだ。

・色彩(テクスチュア)について。レリーフには色とテクスチュアの付加が施されているが、観賞者の移動による情報量の変化をフラットにする形の布置に対して、各々のレリーフの色彩の独自性(だけ)がほかならぬ「ここからの見え」を定義する。パースペクティヴの「一挙性」(instantaneity)をキャンセルし、「私」が「ここ」から「見ている」ことを突きつける色や手触り。形態=構成とテクスチュアの相反する在り方が、空間に強い緊張感をもたらしている。

・起こっていること。位置や角度によって表情を変えるレリーフが、目の前にある。でも、一気にすべての角度からの「見え」を知覚することはできない。このレリーフの全体像を思い描くためにはほんらい、動いて、首をかしげて、引いて、せまって、色々な仕方で見る必要がある。でも、おなじ形態をもったレリーフが周りに並べられているから、わざわざぐるぐるする必要はない。隣を見れば、いまは見ることのできないこのレリーフの裏側を想像することができるのだから。目の前のレリーフの「見えていない部分」に、隣りのレリーフの「見えている部分」を代入するということだ。つまり、目の前のレリーフの見えている部分、と、その隣のレリーフの見えている部分、そのまた隣のレリーフの見えている部分、らをすべて束ね、色やテクスチュアを混合しながら、頭の中でレリーフの仮想的な全体像を組み立てる、ことができると。でもそんなレリーフはこの世に存在しない。目の前のレリーフの見えていない部分の色彩と、隣のレリーフの見えている部分の色彩はおそらく違うのだから、それらの「混合体」というのは私の頭のなかにしか存在しないのだ。それは、観賞行為の只中にのみ現象する、きわめて主観的で、一時的なものだろう。そしてその「仮止めの全体像」は数メートル歩くとまったく別の姿に切り替わる(レリーフの「見えている部分」の色彩は動くごとにどんどん変わっていく)。隣のレリーフがつねに視界に割り込んでくるから、目の前のレリーフだけに注目することはむしろ、とても難しいことだと感じる。

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・フリードの「芸術と客体性」を引けば、このレリーフは単体で見れば観賞者の動きをこれでもかというくらい誘発するシアトリカルなものなのだが、しかしこの演劇性は一定間隔で多数配置されることで拒否される。が、色彩とテクスチュアが再びこの作品の観賞経験を演劇的なものにする。ただ、このときの“演劇性”(観賞者の身体と知覚対象の空間的な位置関係の変化及び時間の経過によって見えが多様化する構造)が宿る対象は、単体のオブジェクトではなく、「場そのもの」ではないかと思われる。場そのものが演劇的になり、身体が動くごとに空間が生起していくような感じ演劇性に否定に否定を重ねて再生成した空間的な演劇性(いわばアンチ・アンチシアトリカル、もしくは後方宙返り二回ひねり)。だからフリードのいう演劇性と反演劇性の両方が同時に成立しているような状況が、ここで起こっているのかなと思ったりもして、そう考えると、岡崎さんが「モダニズムのハードコア」で当のテクストを紹介した意味(有効性)がなんとなく浮かび上がってくるような気もする。

・「あかさかみつけ」をひととおり見たあと、疲れたので一旦展示室の外で休んで、もう一度最初から観賞する。岡崎さんの作品、一つ見るだけでも非常に体力を使うのにこれだけ大量に作品があると、本当に心身がもたないくらい疲れる。頭をフルスピードで回転させないと「見ているもの」とそこから「想起されること」が整理できない。展示室を出て休んだり、外を散歩したりしたりしながら、朝10時くらいから閉館まで、一日フルで使って見たけれど、これでも十分に見た感じはない。「十分に見た」という感触が得られないということが、ひとつの特徴なのかもしれない。

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Contax S2, Carl Zeiss Planar T* 1.7/50, 記録用 100

 

◯やぶって、めくる、の再演

・最初の展示室に入ってすぐのところに展示されているドローイングについて。紙の上に(一見するとランダムな)線を引き、それに別の紙をのせて下の線をトレースし、それをやぶいて、めくりあげたもの。一枚目と二枚目の紙のあいだには隙間ができて、トレースした線の後ろ側には、トレースされた線が浮かび上がっている。ひねりあげられたり、ねじられたり、裏っ返されたり、表と裏が同時に見えていたりする。これはいったい何を見せようとしているのか。

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*以下、撮影はiPhone

・ここでの「見え」は以前紹介した『四次元が見えるようになる本』で紹介されていた四次元空間の見えとかなり似ている *2。この本で紹介されていたのは、①X-Y-Z座標を紙面に書き、②その座標が示す仮想の三次元空間に「没入」しつつ、③座標の原点に鉛筆を垂直に立てる、というもの。このとき重要なのは、紙面上に描かれた座標(仮想の奥行き)を認識しつつ、現実空間での奥行き(紙面に突き立てられた鉛筆)も認識するという塩梅である。トレペに射影された仮想の奥行きへの「虚(うつろ)な没入」ともいえようか。これはさきほど言及した「演劇性と反演劇性の同時成立」ということにも関連しているように思われる(自分はこういう構造がある作品に惹かれがちだ、というか、こういう空間性をもっている作品だけを言及対象にしてる気がする)

・おこなわれている操作を整理しよう。まず、線を引くこと。次に、その再演=リエナクトメント。そして、重ねられた支持体の破れ・めくれ(によるふたつの支持体間のズレ)。紙に引かれたラインが提示するのはひとつの時間の流れ・空間であり、それが破かれ、ずれながら、上下に重なっている。ここで起こっているのは、異なる次元に折り畳まれたふたつの仮想空間を同時に認識すること、つまり、物理的な「破れ」を介して両者の“ずれ”こそを現実の三次元空間で知覚すること、だと思われる。ひとつの作品に封じ込まれている四次元的な空間性を知覚するためには、上記で書いたようにどうしても「没入」する(二次元を三次元“として”知覚する)必要があるのだけど、それはここでも同様で、この作品が強いる独特の空間性を「見る」ためには、上下の紙に描かれている線の動きを目で追う(ラインがもっているある時間の流れみたいなものを再生する)必要が、少なくともぼくにはあった。ゆえに、この作品は四つ並べられているけれども、各々の空間性を同時に知覚することは決してできない。没入(主観的な時間の供犠)なしに、各々の作品に刻印された時間や空間を解凍することはできないのだから。

・四次元的な空間の知覚を追求するというのは近代以降の美術としては全然新しいことではなく、むしろ超王道という感じなのだけど、内部に時空間が封印されたオブジェクトが並置されていて各々の空間性は決して交わらない、という感じは非常に岡崎さんっぽい。下の作品のように、岡崎さんのペインティングはブロック化した色彩・テクスチュアの配置によって成立している。色彩・テクスチュアのブロック=構成要素は、ラフに描かれているようでその実“計画された”ものであり、絵の具のかたまりをほとんど彫塑的な仕方で緻密に操作(ひねったり跳ねさせたり押し込んだり)することで描かれている。このペインティングの構成要素は、上記のやぶってめくりあげられたドローイング作品と、あるいは「あかさかみつけ」に代表されるレリーフ作品と、ほとんどおんなじものとして扱われていると考えていいのではないか。各々のブロック=構成要素は固有の空間が封じ込まれた閉曲面である(いわば各々がモランディの絵画における瓶である)。しかし、構成要素が内蔵する空間を同時に知覚することはできない。キャンパスには通約不可能な複数の空間が、相互にばらばらに切り離されて配置されている。

・こうした構成要素のあり方は、建築でいえばアドルフ・ロースの「ラウム=部屋」に近いように思われる。ロースの仕事の場合は、異なる質と機能をもった「部屋」がひとつの単位として立体的に構成され、ひしめきあう。ここではインテリアが部屋ごとに違うこと、に加えて、様々な要素が部屋の“内観”での対称性をつくること(翻って外観にはアシンメトリカルな仕方で窓が現われるのだけど)などから、「部屋」という単位の自律性が高められている。ブロック化した“手触り”としての、部屋。

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◯二枚組のペインティングについて

・二枚組の場合は、この「中身の詰まった」構成要素が左右で響き合うことになる。左側で配置された構成要素が右側では別の色彩・テクスチュアになっていたり、右で配置された構成要素が左ではヴォイドになっていたり、寸法や位置が変わっていたり。だけれど、両者ははやり同時にみることはできない。どちらかしか、見ることができない。それでも両者を同じ形と認識することができるのは、「記憶の最小単位」のようなものがあるからだ、としか考えれない。絵をみながら最も考えさせられたのは、この記憶(する主体)のあり方だった。

・ふたたび、通約不可能性。

二つの長さが通約可能であるとは、どういう意味であろうか。それらが公約数をもつということである。単位に分割された物差しがあって、それを基準にして今度は二つの長さが部分に分割でいるようになっているか、さもなければ、そのような物差しをつくることができるということである。 換言すれば、二つの長さは一対一で、顔と顔を突き合わせているときには別のものであるのだが、ある第三項、つまり基準もしくは物差しとして用いられた測定単位とのかかわりにおいては、ほとんど同一なのである。興味深い、そしてよく知られた模倣の三角形状況。つまり、局所的には融和しがたい二つの差異が、外側の視点からは、相似性に還元されるのである。(……)同と他が見出される新たな三角形。二つの数が互いに素であるとは、何を意味するのか。それらが1以外には公約数を持たず、根本的に違っているということである。だから、最初の三角形状況が舞い戻ってくる。すなわち、あらゆるものにとって同一である1=単位を考えない限りでの完全な他性。(……)模倣の理論がその言語の中で明確に理解しているのは、三角形の中において、ある種の条件のもとでは、他が同であり、同が他であるということ、これである。

ミシェル・セール: 幾何学の起源 定礎の書, 豊田彰訳, 法政大学出版局, pp.184-186, 2003.9

同時にその空間を開封することが不可能なAとB。それらを結びつける物差しとなりうるのは、ほかならぬ観賞者だけである。いや正確には、ある持続した時間の流れのなかで、観賞者が封じ込まれたふたつの空間を開封・記憶し、それらを自身の頭のなかで結びつけるときだけだろう。観賞者は各々独自の仕方で絵画における第三項=測定単位となり、絵画のもつ構造のなかに、一種の構成材として組み込まれる。たぶん通約不可能なものを通約してしまうということが、「見る」ことのひとつの可能性なのだろう。

・他を同とする「見る」という技術は、記憶の媒介なしには起こりえない。しかし、記憶ほどいかがわしいものはないのである。絵の具のかたまりがもつ色彩やテクスチュアは記憶の逆円錐のなかに放り込まれ、活性化し、無数の歴史を、イメージを、ことばを、味を、においを、現在に呼び覚ますだろう。岡崎さんの絵画を「見る」とき、少なくとも自分の身に起こっているのはこういうことだと思う。

・岡崎さんの絵画はタイトルが長いけれど、構成要素を配置するプロセスと、この詩のようなタイトルが決定されていくプロセスは同時に進行したのではないかと想像する。ある構成要素の配置が次なる構成要素の配置を引き出し、その影響はもう片方のキャンパスにも及ぶ。と同時に、その構成要素の色と形の質感は連想作用をもち、ある言葉(や記憶、歴史)を引き出すことだろう。言葉は文となり、やがて出来事と物語を示唆するだろう。それがまた、キャンパスへの構成要素の布置とその造形(色、質感、ねじれ)に影響するだろう……と、そうしたフィードバック・ループによって作品が制作されているような気がするのだ。加えてできあがったものをみていると、こういった言葉と形が相互依存していくような制作のプロセスが、ごくごく楽しみながらおこなわれたのではないかと、ぼくには思える(ある意味でこれは、メディウムを使った一人大喜利みたいなものではないか)。だから岡崎さんのやたらと長い作品タイトルは、作品を「代表する」という従来のタイトルのありかたとは根本的に異なっていて、これはあくまで作品の制作プロセスの「痕跡」(=聖骸布)みたいなものなのではないか。あるいは絵画こそが、詩の制作プロセスの痕跡なのだ、といってもいいのかもしれないけれど。

・これは発見だった。タイトルと絵画の関係について、一方が先に存在していて、他方はそれを翻訳したものである、というものでは決してないと、今回ハッキリと思ったんだ。両者の制作プロセスは同時に(あるいは行ったり来たりしながら)進んだはずだ!というこの確信が作品をみていておこったのは、なぜだろう。そしてもうひとつ、岡崎さんのつくるものには、ものすごく精密かつ理論的に考え抜かれて決定された要素と、ものすごくいいかげんに決められた要素が隣り合っているような(聖なるものと俗っぽいものが密着しているような)気がすごくしたのだった。この世の真理とくだらないダジャレが同列に扱われている感じ。それはぼくにとって、希望以外のなにものでもない。

・ちなみに下の作品のタイトルは、右: 「淡水水産物つまりおサカナ、といっても人の放流したアユやニジマスを穫って暮らしている。水面から水の裏を見透す(背後に食客三千)。水を飲み、氷を食べる暮らしと違わない(水は凍って大きく膨らむ)、だからサカナたちから税を奪う。」と左: 「おサカナたちは成長してゆくご自分の姿などにはお気づきにならない、だからこそは思う壺。誘いの水が水なのだから(地理には明るい)。海の下だろうと雪の中だろうと違わない(魂は舞いはじめ先を急ぐ)、もう目覚めることもないだろう。」(いずれも2008年制作)である。おサカナ、好き。

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◯ちいさなペインティング群について

・ゼロ・サムネイルと呼ばれる小さなペインティングのシリーズ。去年、天王洲のtakuro someya contemporary artで新作をまとめて見たことを思い出す。去年の展示を見たときもそうだったのだけど、気になったのはやはりフレーム(額縁)と内容の関係だった。このシリーズ、額縁がめちゃめちゃよくって、木材を掘り出したようなものなんだけど(素材はタモ??)、かたちが作品ごとに微妙に違う。左右だけフレームがあって上下にはないものとか、部分的に切り欠かれていたりとか、背後の台座?だけのものとか。で、この額縁の形態的な特徴は、絵画の画面構成となんらかの対応関係があるとしかぼくには見えなかった。筆致の方向や強さ、切り替わりの位置、キャンパスからの絵の具のはみ出し方など。たぢし、額縁から影響を受けて絵画の内容が決まったのか、あるいは絵画の内容が決まってからフレームが事後的に設計されたのか、は観賞者には識別不可能だ。

・さきほどの作品タイトルのときと同じく、ここでもやはり作品とその外的な要素である額縁が共犯関係にあって、両者の制作は同時に進行したのではないかと想像する。すくなくともぼくには、このフレームが通常の額縁と同じように、作品の完成後にその内容に合わせて制作したものにはどうしても思えなかった。というのも、フレームと内容の対応関係は強いものではなく「なんとなく関係しているな〜」くらいのもので、事後的な額縁制作でこのバランスを毎回作っているという仮定には強い違和感がある。この微妙な緊張関係のなかで絵画が成立するためには、やはり額縁制作自体が絵画の制作プロセスに根本的に食い込んでないとおかしいような気がする。

・だから、ここでのフレームと内容のありかたは、敷地と建築の関係に似ているのではないかと思えた。敷地としての額縁。とはいえ、作品の制作“以前”に額縁=フレームを制作する、ということはありうるのかしら。

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◯タイルについて

・釉彩セラミックタイルの作品、はじめて見たけれどすごかったー。このタイル作品、全体性があるように見えるのだけど、よくみるとひとつひとつ違う(タイルひとつだけをとっても、作品として自律しているように見える)。いわゆる「装飾」というのはふつう一定のパターンを反復するものだから、これはけっこうヤバいことだ。部分がある幾何学的なパターンをもっていて(たいていそれはシンメトリカルで)、その模様が連続しまとまることで全体の雰囲気をつくる、というのとは別の仕方で、謎の全体性が実現している。部分部分が微妙に異なる表情をもっているのにも関わらず、である。これは一体どういうことなんだ。

・ポイントは各タイルの連結方法だろう。タイル同士は、釉薬の方向性や厚み、幅といった要素が“なんとなく連続するように”並べられている(ただし、あえて釉薬の流れが不連続になるように並べられている箇所も散見される)。この連続性は、おそらく事前に計画されたものではない。というのもまず前提として、タイルを用いた作品は全体を俯瞰しながら部分を制作することが不可能だからだ。そこには断続的な「工程」が存在するし、加えて職人との協働が必要不可欠なので、制作は部分的なオペレーションによって進行せざるをえない。タイルの一個一個は、あらかじめ全体を想像することなしに、ある一定のルール=アルゴリズムによって作られている。だからこそ、タイルの釉薬が連続するような隣接関係は、たぶん事後的に、タイルを配置する段階で、あ、こことここがつながるな、ということで決められているのではないか。

・このタイルごとの「部分的つながり」が、作品の全体性(全体の雰囲気)を決定づけている。そしてこの連結が、タイルの制作後に、それを並べる段階で「発見」されたものであるとするならば、これはほとんど「連想」に近いものだ(先ほどのタイトルと構成要素の布置の関係性を思い出そう)。この部分的な隣接関係に意味はない。たまたま釉薬の流れがつながっているからという理由で(もちろん釉薬を塗るオペレータが岡崎乾二郎という個人であり、それが事後的な模様の連結を生む理由になっていることは明らかなのだけど)、あたかも隣接する合理性がそこにあるように思えるだけだ。しかし、この「無意味な連結関係」こそが、非常に重要な気がする。事後的に発見された、意味のない、でもたしかにつながっているような気がする関係性。いわばダジャレであり、遊びだ。

・ダジャレのように、子どもたちの遊戯のように、その場限りのはかない連想によって、タイル同士がたまたま隣り合うということ。そういうものに、作品の存在のすべてが賭けているように思われる。それによって、個々がばらばらかつ自由に振る舞いながらも、連帯の雰囲気(ある種の全体性)みたいなものがたしかに生まれている。全体が部分を統御するのでもなく、部分がアナーキーにただばらばらに存在しているのでもない、部分の新しい集合の仕方がここでは鮮やかに示されているのである。それは、ぼくらのなんてことない日常を、無意味な偶然性に希望を見出してしまうような日々を、大げさにいえば世界そのものを、まるごと肯定してしまうような態度であるように、ぼくには思われる。

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