声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨Takahiro Ohmura

MAR.17,2020_ドミノの自己言及性

 もっとも影響力のあるアンビルド・プロジェクトのひとつがル・コルビュジエのいわゆる「ドミノ」であることは、ほとんど疑いようのないことだと思われる(Fig. 1)。「家 domus」と「革新 innovation」からの造語で、正式には「Maison Dom-ino」(1914-15)と書くこのプロジェクトは、第一次世界大戦によって戦争で瓦礫と化したベルギー及びフランスの再建を目標に発案された建設システムであった。この型枠のいらないコンクリート・スケルトン*1 を手早く展開し、戦争によって発生した瓦礫を用いた間仕切りや外壁を、住民による自助建設によって設置する。なるほど、戦後の資材不足にも、人材不足にも、瓦礫と化した都市のクリアランスにも対応することができる「革新的」な住居建設プロジェクト、というわけだ。

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Fig. 1  Perspective view of the Dom-ino system, 1914 *2

 裏を返せば、建築家の役割を構造体=フレームの設置に還元しえたのは、こうした地政学的な条件があったからこそであった。ドミノは骨組だけの建築物を美的に称揚していたわけではないし、コンクリートスラブによる滑らかな水平面を言祝ぐためのプロジェクトでもない。あったのは状況に対する極めて現実的な対応である。だからこそドミノは、世界を成り立たせているシステムを激変させ、文字通り都市を木っ端微塵にしてしまった人類史上初の世界大戦、という大事件があったからこそ生まれた建築家の建物への新しい「介入方法」として注目すべきだと思われる。そう考えると、住民による自主的な増設を前提としたアレハンドロ・アラヴェナ(ELEMENTAL)によるソーシャル・ハウジング*3 やアテネのPolykatoikia(高層住宅)*4 こそが、まさにメゾン・ドミノ的なプロジェクトだといえるのかもしれない(もちろんとくに後者については問題含みということになるが)。ドミノは単なるスケルトン/インフィルの萌芽的なプロジェクトではない。ポイントは住民自身による自助建設と、ドミノ・ゲームよろしくジグザグに繋げられ、粘菌のように自己増殖していくその運動である(Fig. 2)

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Fig. 2  Layout drawing

 ピーター・アイゼンマンはかつて、このドミノにおけるインテリアとレイアウトの双方における「自己増殖作用」が、あの有名なパースペクティブ(FIg. 1)に“過不足なく”表現されていることを指摘した*5。アイゼンマンによればこのパース図には機能的にも構造的にも説明できない不可解な点がある。たとえば、柱とスラブの関係がスラブの短辺と長辺で異なっているのはなぜか? 一番手前の基礎ブロックが床スラブからはみ出しているのはなぜか?  階段のとなりに不可解な「切り欠き」があるのはなぜか? ドミノは3枚の水平スラブ、6本の柱(図面では8本)、6つの箱型の基礎ブロック、そして1つの階段ユニットから構成されている。この単純な図式はあくまで状況への合理的な解答として示されたものである、というのがもっともスタンダートな解釈だろう。しかしアイゼンマンは、上記のような“不可解な点”はいかなる機能的・構造的・構法的要請にも動機づけられていない「意図的な冗長性 intentional redundancy」であるとし、この要素を「自己言及サイン self-referential sign」と位置づけた。

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Fig. 3  Plan and Section

アイゼンマンの議論を概観してみよう。

i ). スラブと柱の関係

柱の短辺からのセットバック距離と長辺からのセットバック距離が異なっているが、用途が「家 domus」であるということによっても、構造・構法的な合理性によっても、このセットバック距離の違いを説明することはできない。アイゼンマンによればこれは「冗長」かつ「意図的」なアクションである。

ii). 前方に延長するサイン

長辺の柱からの張り出しはキャンチレバーの限界値を表明している。一方で短辺は柱からキャンチしておらず、突然バッサリと切断されたように描画されている。これはパース手前における別ユニットへの接続が「たまたまここで切られた」という表現であり、これによって長手方向の延長可能性が提示されている。加えてパースにおける手前の基礎ブロックの一階床スラブからの張り出しは、そこに別のスラブが乗ってくることを示している。

iii). 後方に延長するサイン

階段横のコーナーに不自然な切り欠きが存在しているが、ii) を踏まえると、階段の手前半分まではスラブの延長であり、もう半分は外側から付加された要素だと解釈することがもっとも自然である。つまりこの切り欠きは、キャンチレバーの限界値(延長の限界値)と付加された要素を同時に描画しているのであって、つまるところ画面奥へとドミノ・システムが延長していくことを示している。加えてこの切り欠きがあることで、直角方向の回転やずれを伴って接続されていくイメージがもたらされる(Fig. 4)。直線的な接続だけではなく、方向転換できるシステムであるということ(Fig. 2)

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Fig. 4  "Self-referential sign" in the Dom-ino system (created by author)

 i )とii) はまぁ思いつきそうなもんなのだが(この部分だけでもぼくはびっくり仰天したのだけど)、iii) の指摘は本当にすごい。アイゼンマンの指摘に付け加えるならば、わざわざ天井に梁型が出てこないフラットスラブにしていることは、内部の仕切りを住民が自由に建設できることを暗示する要素でもあるだろう。こうした必要最低限の「冗長さ」によって、ドミノは他の要素を参照することなく自己成長していくシステムとして理解されうる。

 とくにパースの表現は適切な仕方で不完全で、この不完全さは自身が無限に反復しうるシステムの1ユニットであることを主張しているのだが、重要なことはこういった内容が柱やスラブ、階段や基礎といった“物のありよう”だけで説明されていることである。これらは何も象徴していないし、何か特定の意味を指示しているわけでもない。が、要素間の相対的な差異と関係性が契機となることで、事後的な意味や運動の生産を可能にしている。この(よほど注意深く読み込まないと説明不可能な)意図的な欠落や付加こそが人間の想像力を誘引するということを、当時若干27歳とか28歳であったコルビュジエは完璧に理解していたということになる。即物的な物質の組み合わせによるイメージや行為の誘発、を可能にするための説明不足。ドミノがヤバイのは、この表象レベルでのアイデアが、システムの運用方法(住民による自助建設とユニットの粘菌的な連結)自体とも響き合っているということだ。アイゼンマンがドミノにおける「自己言及サイン self-referential sign」にことさら注目するのは、ここまでくると、とても納得できる。建築が「生成の現場」になることを可能にする形式の可能性が、このパースに端的に現れているのだから。そしてそれは、モダニズムというプログラムが内在している──ぼくらが批判的に検証すべき──ひとつの核心にほかならない。

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*1:加藤耕一による次の論考も参照のこと。

http://10plus1.jp/monthly/2019/08/9-2.php

*2:Fig. 1 - 3: Le Corbusier and Pierre Jeanneret: oeuvre complète volume 1, 1910–1929, A.D.A.Edita Tokyo, 1979

*3:https://www.archdaily.com/10775/quinta-monroy-elemental

*4:https://www.domusweb.it/en/architecture/2012/10/31/from-dom-ino-to-em-polykatoikia-em-.html

*5:Peter Eisenman: Aspects of Modernism: Maison Dom-ino and the Self-Referential Sign, Oppositions 15/16, 1979, pp. 189-198。なお、日本語で読める文献としては、高橋堅「自己言及モデル」(『建築文化 2001年10月号』)が詳しい。