声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨Takahiro Ohmura

APR.18,2020_庭と架構

 Baukunstの『Garden and Structure』(Brussels, 2016)というプロジェクト、ずっといいなと思っていたのだけど、コロナによる自宅待機が続くなかで、こういう空間が街のなかにあるという状況を望ましい(というか自分が欲しい)と思う気持ちが日にまし強くなっている気がする*1。誰かと会ったり、話したり、レクチャーをしたり、踊ったり、佇んだりするためには、日差しや雨をしのげる風通しのよい屋根下空間さえあればいいのだ。 

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  既存の住宅地のなかにぽつんと現れた旗竿敷地の空地に、ポンと大きな屋根をかける、と、いってみればそれはだけのプロジェクトなのだけど、綿密なリサーチを前提とした庭の作り方や屋根のスケールが絶妙。親密なんだけど風が抜けるし、外部とダイレクトにつながってはいるけれどインテリア的なスケールを与えるという屋根高で、向こうに見える既存の塀との関係性がとてもよい。公共空間を象徴するような重々しい屋根なんだけど宙に浮いているようにみえる、という構造的なアイデアも実に効いている。周囲の庭、塀、木々と一体になることでギリギリ「建築」に見えるような場所が現れる、みたいなバランスである。あと、屋根をかけるだけで「囲われた場所」という雰囲気が生まれるのはなんといってもこの敷地設定の妙技だろう(コンペだから行政が優秀なのかもしれないけれど)。旗竿のどん詰まりの先に公共的な場所を作るってアイデアは他では見たことない気がするのだけど、区画の中心部にこういう場所があれば周囲の住環境もまるごと快適になりそうだなと思う。

 似ているプロジェクトとしては、増田大坪の『始めの屋根』だろうか。こちらは個人の住宅だけどね。いずれにせよ、空き地(『Structure and Garden』の場合はほとんど放棄地のような場所に見える)に建築未満の構築物をレイアウトすることで、建築空間によく似た場所と庭によく似た場所が同時に出現する、というたぐいのものである。

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 この屋根が設置されることで、放棄地は継続的に人の手によって(おそらく周囲の住民によって)手入れがなされる空間に生まれ変わるだろう。まさしくそれは「庭」である。建築家によって設置されたオブジェクトは、空間形成のための継続的な手入れ──風景の仮止め──を最大限にサポートするものだけれども、それ以外の無駄な機能の一切が削ぎ落とされている。結果として、形態は極限まで即物的に現れる。

 

 改めてみるとこの屋根は、「ミースのパロディ」を超えて「ミースを道具として使ってみた」というようなものに見える*2。かたちを見る限りではベルリンの新ナショナルギャラリーをただコピーしているようにしか見えないのだけど、このプロジェクトの場合、ミースの建築言語が周囲の風景(塀をはじめとした人工物+丁寧に計画された植栽)と結託することでまったく別の空間を作っている。同じ形態でも別の文脈にのせれば全然異なる機能をもちはじめ、自律的な建築形態も使い方次第では既存のコンテクストにうまく接ぎ木しうるという好例だろう。現に『Structure and garden』は構造的にはものすごく自律的なわけだけれど、周囲との関係性は対立的ではなく、穏やかである。

 あたかも美術館のような、周りに自慢したくなるような堂々たる形態やスケールであっても、屋根だけならコスト的にも無理なく使えるよね、街なかに持ち込めちゃうよね、ということかもしれない。そして美術館的な構築物が備えつけるイメージやスケールの「リッチさ」は、この場所を公共的な場所にすることに一役買うだろう。ぼくのようなだらしない人間でも、ゴミが落ちてたら掃除しようかなとか思うんじゃないかな、この屋根がかかってたら。これはものすごく倫理的かつ政治的な問題。でも、建築家が真っ向から取り組むべき問題。

 この、その場所を公共的にする効果(なんとなく空き缶を放置したくないと思わせる力というか)というのはほとんどもう、形態やスケールの類型的な傾向によって規定されてしまう。だからこそ、このプロジェクトの形態は趣味的でなく即物的な形態(インフラ的といってもいい)でなくてはならないし、素材は石膏ボードをせこせこ張り合わせたようなものではなく住民が誇れるようなしっかりとしたものである必要があるし、スケールは住宅的ではなく市庁舎のピロティくらいなくっちゃいけないのである。すべての条件を満たす建物を作るなんてことはコスト的に当然難しいわけだけれど、予算を平たく投入しては費用対効果は薄まるばっかりだから、むしろどこか効果的な箇所に一極集中させるほうがいいはずで*3、そういう意味でも彼らの「屋根だけをつくる」という戦略はいいところを突いているように思われる。形態・素材・スケールの局所的なリッチさによって、公共空間の自治的な運営を促すということ。それは、ひとことでいえば、周辺に住んでいる人々のことごとくを“庭師”に変える、ということである。

 一見するとこの屋根は構造合理主義的に、ドライに決定されているようにみえるけれど、実際には公共空間における倫理観とか、象徴性とか、予算の問題とか、そういう湿った部分をかなり真面目に問題にしている、と。けっきょく、そういう人間社会的な現実的な状況に対してアイコニックではない仕方で、むしろ幾何学的に(形態・素材・スケールを統御する形式の問題として)対応しているからこそ、本プロジェクトは注目に値するのである。湿った幾何学が、見出されなくてはいけない。

*1:いまだにけっこうアクセスのある下の記事でも紹介した建築。というか記事のアイコンになっているのがこれです。

www.ohmura-takahiro.com

*2:この人たちは事務所名からしてミースLOVE感が強いわけだけれど、この全然隠さない感じも含めていいよなと思う。でも素朴にミース的なものを言祝いでいると思ったら見当違いで、むしろ彼らはかなり意図的に、公共空間への政治的な戦略のひとつとして、ミースを再演(リエナクトメント)していると見るべきだろう。

*3:予算の部位への一極集中は必然的に、既存の公共空間の型(公共建築の形態や素材、スケールに対する人々の先入観というか、コンヴェンションのようなもの)の「つぎはぎ」を要請する。