声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨Takahiro Ohmura

AUG.7,2020_郊外の王

 ちょっと油断するとまじで死ぬんじゃないかというくらい、日中はあつい。これまでは日陰で窓を開けていればなんとかなったけれど、最近は窓を開けてもただ熱風が入ってくるだけで、どうにもならない。2年以上育ててきているアジアンタムも一日で一気に枯れちゃって、急いで一日中日陰となる場所へ移動させたけれどかなりピンチだと思う。道には虫もたくさん死んでいる。家のなかにも虫がたくさん死んでいる(ダンゴムシたちよ、きみらいったいどこから入ってきてるんだ)。死の季節だ。

 気休めかもしれないけれど、2Lのペットボトルを凍らせて扇風機の前に置いておくと冷気が体に当たって気持ちいいことに気がついた。夜はその風を体に当てていれば寝つけるのだけど、先日夜中に目が覚めたときは喉カラカラ・頭フラフラで、軽い熱中症のような症状が出ていて危なかった。深い眠りについたころにはペットボトルの氷が溶けていて......というパターンで、これは気をつけないといけないと思った(このときはなにを思ったか窓を閉め切っちゃってたのだよな。皆さんも気をつけて)。とはいえ日中(12-17時くらい)はどうがんばっても自宅でのテレワークは無理なので、おとなしくエアコンがきいた施設に避難している。郊外というだけあって、近くにはコメダ珈琲やモスバーガー、スタバ、マックなど電源のある喫茶店が充実している。駅前の図書館にいくことも多い。海老名図書館は今はやりの?蔦屋書店を併設している図書館で、蔵書数はそんなだけど、ソファが多かったりして空間としては快適。でもコロナの影響で座席数が減らされていて、その上仕事や勉強で図書館を利用する人が普段よりも多いので、席を確保するのがかなり難しいという問題がある。それと、海老名サービスエリアも家から徒歩5分くらいなので、ここもたまに使っている。充実したSAであることで有名だけど、実は徒歩でも入退場可能なので、近所の人はよく利用しているみたいだ。中には深夜までやっているフードコートはもちろん、24時間営業の成城石井なんかもあったりするのでけっこう便利である。ともかく、こうした施設を駆使しないと熱中症で死にかねないので最近は必死だ。

 それにしてもこのあたりはスタバが異常に多い。海老名SAにひとつ、駅までの道中に店舗がひとつ、駅前のショッピングセンターにふたつ、海老名図書館にひとつ。なんと計5店舗だ。仮にスタバの数が郊外度を測る指標であったならば、海老名は郊外のなかの郊外、キングオブコウガイとなるに違いない。ロードサイドの風景が一点に凝縮している感じというか。その特徴は、すごくバリエーションがあるようにみえて、実はとても均質だということだ。すべてがあるように見えて、実は何もなかった......、というやつ。スタバはどこにいってもスタバなので、安定はしているけれど、楽しくはない。個人経営の喫茶店などほとんどなく(駆逐されてしまったのかもしれない)、お店もチェーン店ばかりで、なんというか、駅前一体がおおきなイオンになっているような感じ。

 でもこれがたぶん、近代というやつの最終形態なのだとぼくは思う。産業資本主義に裏打ちされたモダニズムの、ひとつの達成だ。見事な達成だ。この達成は郊外都市のあり方を即物的に規定しているだけではなく、そこに住む人間の心身(知覚体制)をも見事に作り変えてしまう、そういうたぐいのものだ。技術は単に便利なものではなく、ぼくらの日々の生活の経験、情動、認識にまつわる諸能力を書き換え、知覚に麻酔のような作用を及ぼす。海老名がとくべつなのではない。おそらく日本の都市のほとんどが、そしてそこに住む大多数の人々が、この影響を被っている(もちろん自分も例外ではない)。個々人の生々しい現実が、圧倒的に個別具体的な生(活)が、想像を遥かに超えた規模と密度でひしめいているのにも関わらず、都市空間はどこまでも均質だという異常さ。こうした現実に対して建築家は何か策を講じられるのかというと、ぼくらの手元には切れるカードがほとんど残されていない。

 でも、富山の郊外オブ郊外で育った人間である自分が、建築の技術を通して幸せにしたいと思っている人々のほとんどは、こうした郊外的な生活なかで生きている。そういう意味では、例えば都内の個人経営のお店がたくさんのこっているような場所よりも、海老名のほうがよほど「自分の問題」として考えられる場所だという気がする。そうはいっても答えは簡単には見つからない(ものすごく単純に、土地が余っているということはひとつの可能性だろうか)。郊外論はちょっと本気で書いてみたいかもな、という思う今日このごろ。それにしてもあつい。

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