声にだして読みたくなるブログ

大村高広丨Takahiro Ohmura

OCT.17,2020_過程において現れる歴史

 大阪にいってからちょうど一週間が過ぎた。今日は朝から制作中の書籍や来月のイベントにまつわる作業などをおこなってから、昼から読書会があって(楽しかったが、感想はまた後日)、夕方に黒沢清の新作をみてから(いろいろと思うところはあったが、感想はまた後日)、ピカデリー前のルノワールでiPadを広げている。今日だけでもけっこうなインプットがあったわけだけれど、その前に、先週みた展示や建築の感想をまとめなければいけないなと思う。でないと、いろいろなものの感想が書けない。渋滞している(充実しているともいう)。きちっと書ききることができるとは思わないが、電車などで書きためていたメモを、ひとまずここに置いておく(けっきょく書ききれず、日曜の投稿になってしまった)。

 

 ヤン・ヴォーの展示はとにかく説明がすくなかった。キャプションについてはずいぶん以前から話題になっていたから、何かあるんだろうなとは思っていたけど、こういうことか、と。文脈を知らされないまま、明らかに文脈がありそうな物品と対面するという体験を、すくなくとも音声ガイドを聞くまで延々と強いられる。そう望まずとも、目の前の意味ありげな物品を「解釈したい」という重力からは逃れられず、意味を探して展示室をさまよい歩くけれど、けっきょくは何も得られない。500円を払って音声ガイドを聞くも、音声ガイドのちょっといい声のおじさんの声はむかつくくらい教科書的なことしか教えてくれない(日曜美術館のナレーションみたいな感じ)。あくまで感知できるのは、展示されている謎の物品や手紙、彫像の断片、写真などから受け取ることのできる表面的な手触り、みたいなものだけだ。

  目の前のオブジェクトが実際に何であるのかということ、と、それがどのように見えるのかということ、のあいだには、つねに溝がある。「解釈」は両者を結びつけるもっとも有効で手軽な手段だろう。ずれをともなって経験される両者は、解釈(あるいは意味)によって縫合され、矛盾のないものとして受け取られる。しかしヴォーの展示では、あらかじめ規定された結論(歴史)によってオブジェクトを解釈するということが明確に否定されている。自らの身体を一種の試験体として、物品らに対面したときの「感じ」を観測・記録せよ、ということだろうか。確定的な過去の出来事や明文化されたその記録(これは出来事の物象化、瞬間的な時間への封じ込め、とも言い換えることができる。これはヴォーの作品が真正面から取り組んでいる問題だ)によって目の前のオブジェクトを要約すること、を徹底して迂回しつつ、それらを経験すること。なぜそういったアプローチを取る必要があったのかを、少し考えてみたい。

 

 たとえば、展示の冒頭で経験する部屋について(ここでは冒頭の部屋を取り上げるにとどめるが、ヴォーの展示はとにかく一貫しているので、これから書くことは展示空間のあらゆる箇所で反復されていると考えてもらってよい)。壁面にはなんらかのカリグラフィーを用いて書かれた謎の巨大な文字が丁寧に書かれており、文字の背景は鮮やかな赤色でまるごと着色されている。壁面の展示物でまず最初に見ることになるのは、手紙だ。この作品は、つまるところ本展で最初に観客が見ることになる作品なわけだけれど、どこを見渡してもキャプションはないし、配布された作品リストにもこの手紙についての説明はない。読もうとしても、どうも言語は英語じゃなくフランス語っぽいので、読めない。辛うじて読み取れるのは「20 janvier 1861.」という、おそらくこの手紙がしたためられたときであろう日付だけだ(janvierはおそらくjanuaryだから、1861年1月20日だろうと)。加えて、この日付と目の前の手紙の劣化具体から鑑みて、これがおそらく複写されたものだということもわかるのたが、それだけである。その他にも、いくつかの物品が壁面に掛けられている。宇宙飛行士の下半身を写した写真、磔のキリスト像。壁の足元にも物品が置かれている。酒かジュースのガラスビン(中身ちょっと入ってる)、木箱に収められた大理石の断片。壁にはショーケースのようなものが埋め込まれている。なかには個人の私物らしき時計などが配置され、大切そうにライトアップされている。

 そもそもなぜ赤色なのかもわからないし、謎の書体の意味もわからなければ、書かれている内容もよくわらない。手紙の内容も、キリスト像の意味も、時計の意味も、ほとんど意味がわからない状態で、これらの質感と、これらが布置されることによる空間の重力みたいなものだけを、感じる。とくに、やや低めに配置されたキリストの磔像、やや高めに配置された宇宙空間=無重力状態の身体の写真、地面に配置された大理石の断片(曲線の感じから、なんとなく身体の一部であろうという予測はつく)のバランスがとてもいい。宇宙飛行士の下半身から伸びている紐のようなもの(宇宙船と身体をつないでいるものだろうか)は柔らかな曲線をえがいていて、どことなく、大理石の断片の曲線と対応しているような気がしてくる。とはいえ、それらの織りなす意味まではわからない(背景に何かある、それも地政学的な問題がありそうだ、ということだけがわかる)。その場で、身体的な交渉によって得られる情報のみが、ここでは与えられる(もちろん、ぼくの知識が貧しいだけという可能性はあるのだけど)

 これらの物品を少しでも理解するためには、ある程度ヴォーの出自に関する情報を頭に入れておくことが不可欠だと思われる。彼はベトナム戦争終結後の、急激な社会主義変革のただなかにあった南ベトナムの生まれだ。南部のアメリカナイズされた価値観(資本主義的な経済体制とカトリックへの信)を携えていた一家は、ヤン・ヴォーが4歳のときに、アメリカへの亡命を目指し貧しいボートで祖国を脱出する。が、一家はデンマークの貨物船に救出され、偶然と成り行きによってデンマークに亡命することになる。こうした作家の波乱万丈な人生について、これ以上ここで書くつもりはないけれど、それでも、こうした事実をしらなければ、何が展示してあるのかさえわからない。加えてヴォーの特異なアイデンティティの始点に「移動する」ということ、そして家族(とくに父)の資本主義・自由主義への憧れとカトリックへの信仰があって、そのうえで、そうした出自に対する批判的な精神が前提としてあるということが重要だろう。

 たとえば展示冒頭で見ることになる手紙。これはいったい何だったのだろうか。ぼくが事後的に知り得た情報を書いてみよう。この手紙は19世紀のインドシナで活動していたカトリックの宣教師、Jean-Théophane Vénardが最期に書いた手紙を複製したものだ。彼は弾圧を受け、改宗を迫られるも受け入れず、けっきょくベトナムで処刑されてしまう。作品タイトルは『2.2.1861.』で、これはVénardの命日(つまりは処刑日)だ。加えて、この手紙は彼の父親の手で複写されたものである。彼の父親はフランス語を読めないらしく、この複製は純粋な労働として実行されたものらしい(実際に賃金が発生している)。ヤン・ヴォーの父は熱心なカトリックの信者でもあり、この手紙の主が自らが信仰する宗教の殉教者であることは知っている。でも彼はフランス語を読めないから、複写行為は純粋な線のトレースとなる。ある種の信仰のかたちとして、手紙を複写するという行為が行われている。それと同時に、ひとつの労働として、手紙を複写するという行為が行われている。信仰と労働、その両方こそが、ヴォーの一家が祖国を発ち、亡命することになった最大の動機であったはずだ。この手紙の複製というアクションは、それ自体でヴォーのアイデンティティの根幹を重ね合わせている。と同時に、この手紙は不穏さも同時にあわせもっているように思える。Vénardの殉職は19世紀後半のフランスによるベトナムへの侵略と植民地化の只中にあった出来事である。そして、フランス占領下でのカトリック教徒の増加は後の南北対立のひとつの要因となり、宗教的な対立(カトリック/仏教)とイデオロギー的な対立(資本主義・自由主義/共産主義)、を背景とした米ソの代理戦争としてベトナム戦争、による膨大な死、終結後の大量のボートピープルの発生、まで、悲惨な歴史を串刺しにする。そういう意味での不穏さが、Vénardとヴォーの父の“信心深い”手紙の共同制作の背景にあるように感じられる。自分とは直接的な関係のないオブジェクトを、あたかも自分の人生を象徴する遺物として展示すること。この行為は彼の一連の作品の特徴をよくあらわしているように思われる。ヴォーは徹底したリサーチによって、今はもういない彼/彼女らへの親密さを獲得しようとする。関係性を“掘り起こす”のだ。そして、その上で、セルフポートレイト的かつフィクショナルな歴史を語り始める。

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△ Danh Vo: 2.2.1861.

(Danh Vo: Take My Breath Away, Guggenheim Museum Pubns, p.37, 2018)

 

 おそらくどれかひとつでも、展示されている物品の背景を知ると、その周囲の物品らの意味をなんとなく類推できるようになる*1。とはいえ、少なくともぼくにとっては、音声ガイドがなければ、小さなショーケースに大切そうに展示されていたロレックスの時計に地政学的かつ私的な背景を見出すことはできなかったと思われる。でも、たとえ何かを知ってしまっても、文脈を知らなかったころの経験が消えることはない。展示壁の裏側にまわると、時計のショーケースの後部が露出していて、ショーケースを構成する木の構造体や照明器具、展示壁を支持する構造体などを見ることになるのだけど、それを見てもなお、背景を知らなかったときの経験──いわば未然の経験──が消えることはない。文脈を知る前後で物品の見え方(あるいは物品間の関係性)が変化するという仕掛けは、展示のいたるところで反復されているのだけど、それは会場構成のあり方そのものにおいても反復されている、ということになる。一貫している。

 上記で試みたような手紙の「解釈」は、けっきょくあの手紙はいったいなんだったんだ......作品集の表紙にもなっとるし.....と思ってしまったがゆえに、展示を見た数日後に改めて調べなおしたことではじめてわかったことであり、展示室にいる限りではほとんど知り得ないことだと思う(音声ガイドにも十分な説明はなかったと思う)。でも、そうした事後的な文脈の探索を、作家は決して強制しているわけではない。拒否もしないけれど、それを目的に情報を隠蔽しているわけではない。推理小説的な展開を望んているわけではない、ということだ*2。文脈を理解することは、誤解を恐れずにいうならば(美術の専門の方には怒られそうだけれど)、本展においてさして重要なことではないのではないか、と思われる*3。キャプションがないことや、ずいぶんと不徹底な音声ガイドなど、本展での解説の徹底した排除は、展示物の文脈知らなくても展示経験が十分“成立”すると、作家が確信しているからではないのか。であれば、その確信の根拠はどこにあるのか。

 

 ひとつ仮定できることがある。切断されたイメージがもたらす身体的な感触と、明確な意図をもったそれらのレイアウト、による断片的な知覚同士の連携、らと、観賞者が満足にアクセスできない各々の物品が抱え込んでいる文脈と歴史、とそれらが我々に提出する諸々の疑義、らのあいだには、なんらかの相似的な関係があるのではないか。展示室に布置された物品らを自らの身体を通して感知して廻った一連の経験のありようそれ自体が、各々のオブジェクトが含み込んでいる地政学的かつ個人的な問題と“似ている”のではないか。だからこそ、物品らが「どのように見えるのか」のみによって、それが実際に何であるのかということに、迂回したかたちで──言語も歴史も解釈もなしに──到達できるのではないか。それこそが作家の確信の根拠であり、本展で賭けられている試みではないのか。

 

 物品らのうつろいゆく不安定な手触りみたいなものは、展示構成、つまりは当の物品らの巧妙なレイアウトによって、記憶を媒介にして、「移動」することによって、すこしずつ統合されていく。うまくいくかはわからないが、3つほど例を挙げてみよう。

 まず、展示冒頭の赤い部屋で、少し高めの位置に展示されていた宇宙遊泳中の写真について。この写真のすぐ右側には、父の私物である時計などを陳列したショーケースがあり、かつ、展示壁の背後にまわると、そのショーケースの裏側が丸見えになるという仕掛けがあった。この宇宙遊泳中の写真は、別の箇所でも、同じく比較的高い位置で展示されていて、デジャヴュ的な感覚のトリガーとなる。が、この場所では、ショーケースの表側ではなくひっくり返った裏側が写真の近くに配置されている。先ほどは表から裏へ、ぐるっと移動する必要があったけれど、ここでは一望できる、と。この宇宙遊泳の写真を媒介に、冒頭で経験した赤い部屋が想起される、とともに、ショーケースの裏側が見えていることで、赤い部屋周辺での移動をともなう持続がギュッとコンパクトに圧縮されるような感じを受ける。このデジャヴュ的な仕掛けによって、異なる2箇所の空間において、宇宙遊泳の写真の周囲に配置されていた断片的な物品同士が、半ば暴力的に結びつけられるような感覚を受ける(たとえば、赤い部屋において木箱に収められていた大理石と身体の断片と、スーツケースに収められていた大理石の身体の足が)

 同じような箇所はもうひとつ。イサム・ノグチの照明を使った箇所だ。これは展示の前半と後半に2箇所あり、いずれもパーテーション的に用いられる面的な照明の周囲に彫刻が配置され、シンプルに空間としてかなり美しかった。だからこそ、想起する感覚(と、それにともなう断片の布置の重なり合い)はより強烈だった。

 そもそも、しばしば現れるばらばらにされた身体というモチーフは、パーツを集めて全体を作るような引力を発生させるものだろう。たとえば、赤いセーターを着た少年(ヴォーの甥)をモデルにした写真。赤いセーターの下は裸で、ところどころ肌が露出している。それと呼応するように、ミラーに油彩がなされた平面作品が併置されている。油彩されている、といってもところどころ鏡面部分は残されているから、作品の前に立つと、自分の身体が部分的にうつりこむ(部位は油彩のされ方によってまちまちで、つま先だったり、太ももだったり、肩だったりする)。この鏡への身体の部分的映り込みは、少年の裸体と明確に連動する。衣服による身体の切り取り、エロティックなカメラの眼差しが、ミラーによってこちら側への跳ね返ってくる。加えて、ミラーに映った/赤いセーターによって切り取られた部分的な身体は、ばらばらに切り刻まれ展示室のいたるところに配置された大理石の彫像の一部とも連動する。表面上の形態の類似によっていったん類比的な関係に置かれてしまえば、作品らに潜勢している文脈や背景をも結びつけられてしまうということが、やはり重要だと思う。レイアウトの仕方によって、本来まったく関係のない複数の時間や出来事──遠い過去(大理石の彫像)、近い過去(甥の写真)、そして現在(鏡にうつる身体)──が束ねられる。こうした「時間の折りたたみ」のような作用は、展示空間内で完結する時間スパン(会場構成上の工夫による)から考古学的な時間スパンまで、さまざまなスケールで展開する。

 

 しばらく展示室をうろついていると、だんだん、この展示が博物館の常設展のようにも見えてくる。美術館(たとえばMOMA)の常設展では、収蔵しているコレクションを並び替え、テーマごとに異なるキャプションをつけ、その都度異なる歴史的なパースペクティヴが提示される。ヴォーは、博物館や美術館の収蔵作品の常設展と同じような仕方で、きわめて個人的なアイデンティティに関わる遺物を展示しているようにぼくには見えた。ぼくにはこの手法が、従来美術館の制度の内側で行われてきた(リヴィジョナリズム的な)手法を批判的に「使ってる」ように思われたのだった。展示空間が前提として与えられるときの空間的な専制力(何かを見なければいけない、解釈しなければいけないという強迫観念)は人を、断片化された互いに無関係な物品群から秩序(のようなもの)を仮構する体勢へとかたむけるだろう。そこでおこなわれるのは、物品の配列の意味を検証しながら焦点のようなものを探っていく態度、にもとづく、ばらばらに切り刻まれた象徴性の遡及的な復元作業だ。文脈を知らされないままに物品の表面を「真剣に見る」ことは、ホワイトキューブだからこそできること、という感じがぼくはする。

 ヴォーの作品のほとんどが何かしらの遺構であり、一種の記念碑であると同時に、過去の具体的な歴史と文脈をもち、死を連想させるものである(冒頭のVénardの手紙がまさにそうだ)。手紙を書くこと、記録を取ること、写真を撮ることなどは、ある厚みをもった時間における具体的な出来事の継起を瞬間によって切り取り、物象化することだ。そして、当の遺物を説明なしに眺め、見たままに感じるとき、複雑に絡まった関係性のプロセスは断ち切れ、安定した解釈のタガは外れ、遺構はたんなる物品として、きわめて不安定な意味作用の生成の只中に置かれることになる。生きた物体が遺物になることと、別の使用可能性に開かれることは同時だ。あらゆるものを断片化する必要性がここにある。

 線的に組織され、明文化されて固着化した歴史を一度忘却し、それらを再度異なる視点から、異なる時間継起において組み立て直すこと。確定された(ようにみえる)歴史を、個々人が自由に想起し直せる対象へと変化させること。断片的な物品らの表面とそれらの布置がもたらす本展の一連の経験が開くのは、そうした可能性だと思われる。そしてそれは、ヴォー自身が対象を理解するために実践しているリサーチと介入のアクション(市場経済への、国家的な制度への、家族関係への)が目指すところでもあるのではないか。そこで両者は通ずる。

 ぼくはこの展示、よく歩いた。復元、と先ほど書いたけれど、この作業は元来とても刺激的で、そこに当てられてしまったのかもしれない。切り取られ、断片化し、散り散りになった資料のかけらをよせあつめ、ひとつの可能な像を結びあげること。この像が正しいかどうかなど、誰にも分からない。参照すべき確固たる歴史も、オリジナルのモデルも、もはや存在しないのだ。あるとすれば、歩きまわり、知覚し、それらをつなぎ合わせ、整合的な全体を組み立てようとする行為の過程においてのみである。

 

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*1:たとえば、キリストの磔の像はVénardと父双方の行動の源泉なのだろう、とか、地面に置かれたビンは資本制下での大量生産と大量消費の象徴か、とか、壁面の赤色は共産主義の赤だろうか、あるいは血を表している?、とか、はじめての宇宙遊泳を写したアメリカの有人宇宙飛行実験の写真はベトナム戦争(米ソ対立の全面化)の別の側面を表している?、とか、父親の私物の時計は社会主義的な体制に見切りをつけ亡命を目指し実際に行動をおこした親米派南ベトナム人を象徴するような物品かな、とか、断片化された大理石の彫像は強い全体性が断片となって輸送されることの象徴?、などといったことである。これらの類推・妄想は、何かトリガーがあれば半ば自動再生されるように進展するよう仕掛けられている。ちなみに書体についてはまだちょっとわからないけれど、おそらく何か背景はあるのだろうと思われる。

*2:世代ということもあり、情報の意図的な隠蔽とチラ見せ、暗示によって考察と妄想を誘発する、という手法はとても「エヴァっぽい」と感じるし(ポストモダン的といってもいいのかもしれない)、実際に観賞の中盤くらいまでは、作家がこのような不親切な展示を露悪的にやっている可能性が拭えずモヤモヤしていたのだけど(これが以前書いた本展を見たときのもやもやなのだが)、展示を巡っているうちに、この作家は、物品らの文脈を知識として理解・解釈することを本気で必要ないと考えているのではないか、と感じるようになった。

*3:本展を構成する各々の物品は、どれもそれ単体でギャラリーでの個展を成立させるようなものだし、実際過去にそうしたかたちで展示されてきたものだ。ギャラリーで、ごく少数のオブジェクトが展示されているような場合であれば、作品の文脈に観賞者が深く立ち入ることも可能だろう。でも、本展のような美術館での個展となるとなかなか難しい。単純な規模の問題は侮れないと思われる。