Object Oriented Architectureへの助走

 

0. オブジェクト指向存在論

 オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology / 以下、OOOと略記)が扱う「対象(object)」は、テーブルやフォーク、電灯、家、電車といったぼくらが日常生活をともにしている事物はもちろんのこと、中性子や「四角い丸」といった物理的・数学的な対象や、EUに代表される諸国同盟や組体操の人間ピラミッドのような集団的な対象、はたまたケンタウロスのような非-実在の対象をも含んでいる。OOOにおいては、ありとあらゆるものが、複数の「性質」を備えた「対象」の分極された関係としてモデル化され、それらが出会い、別れ、安定化し、壊れ、すれ違い、眠ったまま引きこもる様が等しく描き出される。あらゆる事物に応用可能な認識のフレームとしての存在論を、グレアム・ハーマン(Graham Harman)は構築しようとしているのだ。

 ハーマンの哲学は現象学を出発点とするもので、既存の哲学とあくまで地続きの議論である。しかし、現象学があくまでも我々人間が認識するところの事物の表象を扱うのに対して、ハーマンはあらゆる存在者の「認識能力」を(複雑さの大小はあれ)認めることで、存在者の「種類」に対して、決して存在論的な対立を投げかけない。その上で、非人間的な対象の因果関係を、人間による対象の知覚と区別なく統一的なモデルで論じようとしているのが、オブジェクト指向存在論である。見方を変えれば、人間以外のあらゆる存在が主体たりえる現象学を考えようとしている、ともいえるかもしれない。人間中心主義の否定。この点でハーマンの議論は、フッサールの現象学や、「現存在(Da-sein)」の優位性を重視したハイデガーの哲学とは遠く隔たったものとなっている。

 後に詳しくまとめるが、OOOは事物一般のあらゆる「相互関係」を否定する。OOOにおける「関係」はあくまで非対称なもの、一方通行的なものである。OOOでは、事物一般の他者性を絶対化し、それらの「決して組み尽くせない秘密」を留保する。現前する対象はすべからずカリカチュアであり、ぼくらは対象のすべてを組み尽くすことは決してできない。しかし、ハーマンの議論を、オブジェクトの「引きこもり」を絶対化するという方向で読んでいくべきではない、とぼくは思っている。その方向でいくら四苦八苦しても、実際に建築をつくる理論へ返ってくるものがあまりにも期待できないからだ。一方で、「関係」のほうを絶対化する方向でも、「ものをつくる」ための建設な議論を引き出すことは困難であると思われる。あらゆる存在者がアクセスから引きこもった秘密をもつ一方で、それらは間接的に関係し合っているという、「関係」と「無関係」のあいだをついていくハーマンの慎重な議論の進め方を、建築へと議論を転換する上でもしっかりと組み取っていくべきであろう。

 建築とOOOをどう結び付けていくか、一応ぼくの考えも記しておかねばならないだろう。たとえば米国では、OOOは日本よりもかなり早い段階から受容されているけれど、そこでOOOは「奇妙な(weird)」形態と結び付けられることが多いように思われる*1。しかしぼくとしては、これはこのような記事を書いているモチベーションでもあるのだけど、このようなOOOの消化の仕方にはいささか納得がいっていない。翻訳のタイムラグもあることだし、OOOと建築の既存の議論を安易に迎合するのではなく、むしろ積極的に「こうでもありえた」別の仕方での議論を引き出したい*2 *3

 ぼくはOOOを、形態生成の引用元とするのではなく、そしてもちろん、既存の恣意的な形態や表現のキャプションに落とし込むものでもなく、あくまで既存の議論を「書き直す」ための修正パッチのようなものとして捉えたいと思っている。ある理論で対象を捉え直したときに、従来の議論の枠組み全般の書き直しが要求されることはよくあることである。そして幸いぼくらの手元には、有用な建築理論がいくつも用意されている。建築家はこれまで、長い年月をかけて下部構造(どのような仕方で構成材を綜合するか等)における問題と、上部構造(どのように認知されるか、使用されるか等)における問題をいったりきたりしながら、常に建築というひとまとまりの「対象」にこだわって思考と実践を続けてきた。一部例外はあるものの、ウィトルウィルスからはじまり、パラーディオ、セルリオ、デュク、ゼムパーときて、バンハム、ロウ、フランプトン、ヴェンチューリ、アウレリに至るまで、基本的に「建築理論」といわれるものは総じてオブジェクト指向だったとさえいえる。なぜなら建築を考えるということ──すなわち建築物を当の問題として「対象化」し、ハーマンの定義を借りればその対象を解体(undermining)や埋却(overmining)しながら分析するという行為──は、必ずもとの「対象」のほうへ、すなわち「建てること」のほうへ、再度投げ返されるからである(逆にいえば、「建てること」へのフィードバックをもつ限りにおいてのみ、建築理論はオブジェクト指向なのである)。建築は、いくつもの部材で構成されるが部材そのものには還元されず、都市空間のある敷地なかで位置や機能や役割をもっているけれどその関係に埋没することは決してない。建築は無数の関係性の網にとらわれながらも、ひとつの自律性を持続する存在である。建築家が建築物という多種多様な部材で構成された統一的なユニットの設計にこだわり続ける限り、これからも建築理論はオブジェクト指向であり続けるだろうと、ぼくはそう思う。しかしこれまで、そうした建築への接近の仕方──いくつもの部材により構成され、かつ多様な性質をもつ「建築」という中間的なまとまりを「対象」としてとらえるという態度──それ自体が、しっかりと吟味されたことはあっただろうか。

 現代の建築を巡る状況に関して、「性質」や「部分」を語る雄弁さに比べ、建築というまとまりをもったユニットそれ自体を語る言葉があまりにも貧しいことが問題であると、長い間考えていた。そこには存在論がない、と。言い方を変えれば、「分析」や「観察」の結果を、「建てること=統合すること」になかなか投げ返すことができないというところに(すなわちオブジェクト指向に建築を思考することが困難であるということに)、現代建築の行き詰まりが現れてはいないか、と思う。ハーマンによる意欲的な存在論は、建築にまつわるこれまでの知的実践を統一的な視点から評価し直す強力なパースペクティヴとなり、既存の建築理論への(ワクチンではなく)ウイルスとなりうる理論だと、個人的には思っている。OOOを含め、建築以外の専門分野の知見を注意深く参照する意味は、とりもなおさずそこから得た新たな認識によって、既存の建築理論や建築物を見つめ直し、新たな評価を与えたり部分的に書き直したりをするきっかけとすることで、自らの構築に向けたの道具を用意していくことにある。

 存在論が認識論でもあることを忘れてはならない。新たに獲得した「眼」によって、過去に光を当てること。設計へのフィードバックはそこではじめて生まれる。哲学者の提供する刺激的な概念を直裁に形態に落とし込んでしまうのは、あまりにもったいないと思う。焦る必要はない。まずはぼくらの手元に残されている、すでにその価値が証明されているが、しかしまだ発展の余地を残しているいくつかの建築理論を、じっくりと見直すべきだ。ハーマン自身が、グリーンバーグやマイケル・フリードといった新しくはない理論家たちに光をあて、自身の理論によって解釈し直しているように、だ。ぼくも、あくまでハーマンを見習って議論を進めてみようと思う。

 さて、ハーマンの議論はとても刺激的である一方で、解釈が難しい点がいくつかあるのも事実だと思っている。その辺を検証しつつ、ひとまず建築を専門としている人間の視点から議論を再構成・チューニングしていく必要があるだろう。本稿が、OOOが喚起する新しい(かもしれない)新たな建築読解を、各々が制作していくための道具立てとなればと思っている。

 人間から建築へ。建築からただのモノへ。モノからオブジェクトへ。記号論や言語論的な枠組みで建築を思考することから一旦離脱し、非人間的展開(the Nonhuman Turn)を経由してもう一度建築のほうへ、人間のほうへ、回帰することを目指そう。

 

 


1. undermining / overmining

 ハーマンは、従来の哲学は対象に対して「解体(undermining)」もしくは「埋却(overmining)」というどちらかのポジションをとり、対象という中間層をスキップした思考を続けてきたことを指摘する。

 

解体(undermining)

 事物を構成する究極的な「一者」を想定する考えは古来から存在していて、その最も基礎的な何かに対しては、「アトム」(デモクリトス)や「アペイロン」(アナクシマンドロス)など、さまざまな名前が与えられてきた。また現代を生きるぼくらにとっても、たとえばリンゴとは何かと問われたときに、それを分子や原子、クオーク、電子、微細のひもの集合として一元論的に捉えることは、ごく一般的な思考方法であるように思えるだろう。

一見自立的な対象であるかのように思われるものも、実際には、より小さな部分の寄せ集めにすぎない。基礎的なものだけが、実在的でありうる、というわけである。*4

このような、対象をより小さな部分の寄せ集めとして考える方法を、ハーマンは対象の解体(undermining)であると批判する。さらに、たとえばマヌエル・デランダはベルクソンのような仕方で潜在性の平面について論じているが、こうした対象を「前個体的なもの」とみなす中途半端な一元論も存在する。ここでは世界は準分節化されたかたまりとみなされ、事物の断片が人間によって恣意的に切り出されるのだと考えられる。いずれにしろこれらの立場においては「対象は究極的な実在の名を担うには個別的すぎると主張し、諸事物の発生源として、より深層にある未規定な基礎を考え出す(QO, p.22.)。しかし、ハーマンはこうした戦略を以下のように批判する。

たとえ欧州連合の全ての国がクオークと電子でできているとしても、私たちは連合を変化させることなく、それらの粒子の位置をある程度移動させることができる。連合それ自体変化させずに、粒子の数や配置を変える方法は無数に存在するからだ。「余剰因果」ーー多数の異なる原因が同一の対象を生じさせることができるーーとしてしばしば知られるこの原理が示唆しているのは、対象がその原初的な要素以上の何かであるということなのである。(QO, p.30.)

 

埋却(overmining)

 対象を扱うもうひとつの典型的な方法は、対象を「性質の束」と考えることである。

経験の対象とされるものは性質の束にすぎない、というよく知られた経験論的な見方について考えてみよう。〔この見方によれば〕「リンゴ」という言葉は、習慣的に結び付けられた一連の離散的な性質──赤さ、甘さ、冷たさ、硬さ、固さ、美味しさ等──に対する集合的なニックネームにすぎない。存在するのは、個々の印象、究極的には、経験の微小なピクセルなのであって、そうした点状のものを習慣的に結合することで、私たちはより大きな単位を編み上げているというわけである。(QO, pp.23-24.)

しかし、ハーマンはこのような対象を性質の埋却地とするような方法を“overmining”と名付け、以下のように批判している。

しかし、これは全くの作り話である。私たちは経験において出会うのは様々な統一的対象であって、性質の離散的な点ではないからである。実際のところ、本当の関係は逆である。事物が有する個々の性質には、あらかじめその事物全体のスタイルないし感じが染み込んでいるからだ。私が持っているリンゴと全く同じ色相の赤色を、近くにあるシャツやスプレー缶に見つけることがたとえできたとしても、それらの色は、それぞれの場合において異なる感じをもつことになるだろう。というのも、それぞれの色は、自らが帰属している事物と結合しているからである。(QO, p.24.)

 

相関主義と関係主義

 経験論が上記のような仕方で、対象を経験における「性質の束」に埋却するのだとしたら、経験の「外部」にある対象はどう扱われるのだろうか。カント以来、前衛的な思想家の多くは、際立って反実在論的な傾向を示してきたという。反実在論者の立場は大きく分けてふたつで、ひとつはバークリが「存在するとは知覚されることである」というように、知覚される外部の存在を完全に否定する立場である。もうひとつは、カンタン・メイヤスーが「相関主義(correlationism)」と命名するものだ*5。すなわち、人間なしの世界について私たちが思考することは不可能であり、人間-世界の相関ないし連関だけが唯一思考可能なものであるとする、認識の外部にある世界について懐疑的な、それをあくまで不可知であるとする立場である。空間や時間、そして諸カテゴリーを媒介にして、人間と世界の関係性は哲学的に、その他あらゆる種類の関係性に対して特権を与えられており、哲学は第一に世界へとアクセスする人間について扱うものであって、少なくとも出発点として、このアクセスを引き受けなければならない、というわけだ。これに対抗して思弁的実在論(Speculative Realism: SR)が目指したのは、人間から切り離された「物自体」を議論の中心に復活させることであった。

 「思弁的実在論」という動向は、2007年にロンドンのゴールドスミス・カレッジにて、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、カンタン・メイヤスー、グラハム・ハーマンによっておこなわれたワークショップに端を発している。4人の議論は、メイヤスーがワークショップの前年に『有限性のあとで』において示した「相関主義」への異議申立てという点では足踏みを揃えていたものの、その方法、すなわち「物自体」を語る方法に関しては著しい対立があった。メイヤスーら思弁的唯物論の立場は、人間の世界へのアクセスという文脈から議論を進めるものの、最終的には、たとえば数学的に定式化可能な性質といったその外部にいかなる余剰も存在しない(人間から切り離された)絶対的なものを、人間が認識しうるというところに帰結する。一方OOOの議論はその真逆であり、ハーマンは人間の「物自体」へのアクセスをはじめから否定するが、それは人間に限ったことではなく、事物一般における一般的な法則であるとし、人間中心主義を徹底して否定する。スティーヴン・シャヴィロがいうところの「消去主義」がメイヤスーらの立場であり、「汎心論」がハーマンらの立場であって、シャヴィロによればカントの相関主義(私たちはモノそのものではなく、私たちが認識するところのモノを認識しているのであって、そこには認識の誤謬がいくらでも混入しうる)を批判しようとする場合、基本的はこの2つの筋道が想定できる*6

 さらにハーマンは、相関主義的立場の変種でありつつも、本質的に反カント的な理論として、関係主義(relationism)という立場を挙げる。ホワイトヘッドやラトゥール、一部のプラグマティストのうちに見いだすことができるこの関係主義は、あらゆる実在が人間と世界の関係に基礎づけられること(相関主義)を否定しながらも、どんなものも、ひとつのアクターとして他のアクターになんらかの影響力をもつ限りにおいて、事物は個体性を獲得できるのだ、と主張する。関係主義において、私が知覚した窓を打ち付ける雨と、雨と窓の接触それ自体は「本質的に」異ならないものであり、このときある対象の実在性は、他の対象への現前(関係の集積)によって汲み尽くされるものである。ハーマンは以下のように批判している。

こうした立場はどれも、対象を直接的な現出によって容易に代替可能で無益な基体として扱う点において、対象を埋却している。(……)このように世界を関係へと還元してしまうことにはいくつかの問題がある。まずもって、世界の全体が現在の所与によって汲み尽くされるのだとしたら、何かが変化する理由がない。(……)さらに、この立場には、異なる様々な関係を結びつけ、それらを同一の事物への関係とするための手段がないという問題がある。ある家が、三人の女性と一匹の犬、そして一羽のカラスと同時に出会う時 とき、それらがもつ知覚はそれぞれ非常に異なった性格を有しているだろう。」(QO, p.26.)

 たとえば、朝の通学前の時間帯にゴミを捨てに出た際、異なる複数の主体がぼくの周りに集まるときに、それらの主体が知覚するぼくの表象は主体ごとに異なるものになるだろう。たとえばアパートの前で集団で飛ぶ羽虫の群に接触するぼくは、羽虫にとっては生物というよりは自然災害に近い存在であろうし、カラスにとってのぼくは、定期的に餌場(ゴミ捨て場)に餌(生ゴミ)を随分と取りにくい仕方で供給する公共インフラに近い存在かもしれない。また、足元のアスファルトにとってぼくは(スニーカーの底でしか接触していないために)ほとんどゴムとイコールであるはずだ。羽虫・カラス・アスファルトは、「自然災害として私」「インフラとしての私」「ゴムとしての私」という異なる「私」と出会っているが、その瞬間、「私」は依然として統一的な「私」でありつづけている。関係主義のロジックにおいては、異なる主体が知覚する複数の「私」(災害・インフラ・ゴム)を、ひとつの統一的ユニットとしての「私」に統合する経路をもたない、と。さらに、もし異なる主体が知覚する「私」を何らかの仕方ですべて集計することができたとしても、それらの総和によって「私」の実存を説明し切ることは決してない、ともハーマンは言う。

私は今ここにいる実在的な何かであって、〔私の〕外から編み上げられる知覚のタペストリーではない(QO, p.27)

 

実体の哲学

 実在性についての哲学や自然科学の解釈は上記の二つの戦略へと分けられる。さらに、この対象の解体と埋却という思考方法は表裏一体であり、事物をひとつの物理的要素へと解体する場合、最終的な還元要素にある性質を付与するということがよくあるし、対象を「性質の束」に埋却する場合も、複数の知覚を相互に関連付ける特別なひとつの実体として神を想定さざるをえないということがおこる。これらはともに、一種のホーリズムへと陥る可能性を孕んでいる。

 一方個体的オブジェクトを重視する哲学の系譜の中心は、アリストテレス的系譜である。ここでは個体的な存在者は「第一実体」として扱われる。アリストテレス、スコラ哲学、ライプニッツを源流に持つ理論はいずれも実体の理論と呼ぶことのできるものであり、OOOは同じ系統の最新版であるとハーマンはいう(さらにいえば、スコラ哲学からのブレンターノ、フッサール、ハイデガーというライン)

アリストテレスにとって、重要な裂け目があるのは、もはや完全な形相と(質料における)その不完全な現れの間ではない。その代わりに彼は、まさに対象そのものの内に──すなわち、個別的な猫とそれがつかの間有している様々な偶然的特徴との間、あるいはその猫とそれが有している様々な本質的な性質の間にさえ──闘争を見て取っていたのである。(QO, p.32.)

ライプニッツのモナドにおいても、各モナドは固体的事物である一方、それが統一的事物である限りにおいて、それがもつ多数の性質と異なっていることが認められている(かつ、モナドは他の事物の知覚により定義されるが、いかなる知覚も他のモナドと真の接触をもたない。すなわち「モナドには窓がない」)。いずれも、対象と性質の間にある厄介な亀裂に着目しながら、実体を定義しようとしていたのである。

 しかし、アリストテレスから続く実体に関する議論とハーマンの対象指向哲学の間には大きな隔たりがある。というのも伝統的に、実体は自然なものかつ単数的なもの(さらにライプニッツにおいては破壊不可能なもの)であるとされる傾向があったのだが、OOOでは、イルカや石や木だけではなく、プラスチックのコップや風車、手を握り合った人々から成る輪、接着されたダイアモンド、オランダ東インド会社等も実体として取り扱われるからである。

対象は、二つの意味で、自律的(autonomous)でなければならない。すなわち、対象は、その構成要素以上の何かとして創発する一方で、他の存在者との関係から部分的に自らを抑制しているのである。(……)対象は、結局のところ、還元不可能な二つの区分へと分極されていることが明らかになる。(QO, p.35.)

対象は、部分に解体されず、かつ性質に還元されることもない、そうした統一体であり、かつOOOにおいては「寄せ集め」(建築がまさにそうであるが)の対象にも積極的に実体が与えられているのだ。

 

 


2. フッサールにおける対象付与作用と感覚的対象

 個体的なオブジェクトを重視するという方針は、上述してきたように、現代哲学における相関主義(思考と存在の相補的な関係、すなわち人間の事物への「アクセス」のうちにおいてのみ対象を捉えていくというカント以来の哲学的伝統)を否定し、人間中心主義からの離脱を目指すという文脈から据え置かれたものである。このときハーマンは、解体(undermining)も埋却(overmining)もしない仕方で対象そのものを思考するためのモデルを、フッサールとハイデガーから引き出している。

現象学は、あまり認知されていないが、オブジェクト指向思想のより同時代的な系譜をなしている。わたしはここでフッサールとハイデガーの両者を念頭に置いているのだが、彼らはそれぞれオブジェクト哲学に対して異なった革新をもたらしたのである。*7

現象学におけるひとつのパラドックスは、それが「事物そのものへ(to the things themselves)」の回帰を標榜していたのにもかかわらず、フッサールとハイデガーはいずれも観念論者として、全てを人間にとっての事物へのアクセスの問題(それが現れる限りにおいての問題)としてしまったことだった。しかしハーマンが見出すのは、現象学に内在するある種の実在論的な側面である。

フッサールは志向性の領野に留まりながらも、その領野の内に、ある魅力的な亀裂を見出していた。(……)志向的対象には、一つの統一された本質の核があり、その周囲を表層的な偶有性が回っているのである。ハイデガーの場合、状況が異なる。彼は、志向的領域を超えたところにある実在的世界に対して本当の関心を寄せていたからだ。道具分析に見られるのは、人間の直接的なアクセスから退隠(withdraw)している実在的なハンマーやドリルなのである。(QO, p.38.)

ハーマンは、フッサールの議論における対象付与作用から、現前する(感覚的に認知できる)統一的対象がもつ性質との絶え間ない闘争を見出し、ハイデガーの道具分析から、対象の組み尽くせない、あらゆる認知から引きこもった実在性を見出す。

 

感覚的対象と感覚的性質

 フッサールは、単なる観念論者ではなく「対象指向」の観念論者である。フッサールの師匠であったブレンターノにとって、心的なものと物理的なものを区別するのは、前者の作用が常に「何らかの対象」に向けられているということであった。私の愛情や悲しみは、何らかの対象に向けて注意をむけているとき、すなわち「志向(intend)」している際に生じるものである(内在的対象性)。一方でブレンターノは、愛や憎しみといった判断や認知──すなわち志向(対象の生成)──に先立って、なんらかの性質や質感の束が心に「現前」していなくてはならない、ということを強調した。茶色でゴツゴツとした垂直の事物に、多数の緑色の薄く小さな事物が取り付いていて、、、という「性質」が、私がそれを意識する以前から与えられており、私は事後的にそれらの情報をとりまとめ、それを「木」とみなし、対象化するというわけだ。ブレンターノの弟子のひとりであるカジミェシュ・トヴァルドフスキは『表象の内容と対象について』において、心の外にある対象(実在)と心のうちにある内容(性質)を明確に区別し、ブレンターノの議論をより強固なものにした。

 これに対してフッサールは、はっきりと観念論的な方針をとった。すなわち、意識の外にある自然を完全にカッコに入れ、意識が原理的に観察できない対象のあらゆる可能性を議論から排除したのだった。「〔フッサールにとって〕事物は、隠れた生命力や固有の因果的な力をもってはおらず、それが今あるいは将来意識に現れる可能性がある限りにおいてのみ「実在的」なのである(QO, p.40.)。こうしたフッサールの態度は、観察者から自立した存在についての「思考停止」であったが、この「思考停止」を対価として支払った結果、フッサールはオブジェクトに関するある革新的な認識を手に入れたのだとハーマンは指摘する。

『論理学研究』においてフッサールは、明確にブレンターノのモデルを修正し、意識は現前でなく、“対象を与える作用”から成るものだと述べているからである。そしてこれは、些細な違いではない。というのも、現前においては、どんな場合であれ、あらゆる性質のディテールが対等な資格をもつことになるからだ。(……)フッサールの場合、意識の中にあるものが全て同等なわけではない。意識の内在的な領野に議論を限定しているとはいえ、フッサールは、トヴァルドフスキによる対象と内容の区別をその領域の内部で用いるために取り組んでいるのである。(QO, pp.42-43.)

フッサールはブレンターノのモデルを修正する際に、「内在的対象性」(心的な作用のターゲットとなる、意識のうちにある志向的な対象)については引き継ぐものの、「性質の現前」(内在的な対象に先立ち、性質はフラットに現前する)については否定する。フッサールは、意識に現前するあらゆる性質は、あらかじめ対象に紐づけられている、と考えたのだ。トヴァルドフスキは「対象」を意識の外へ、「性質」を心のうちに置いたが、フッサールは(徹底した観念論者であるがゆえに)両者をいずれも意識の内部に置くのだった。そしてそこであきらかになるのは、ひとつの統一的な対象が、複数の性質に引き裂かれているという奇妙な事態である。

ひょっとしたらフッサールが、夕暮れ時に、希死念慮を抱きながら、百メールの距離を保って給水塔の周りを歩いたことがあったかもしれない。塔を観察しつつ悲しい気持ちで道なりに歩いていくとき、その塔は絶えず様々に異なるプロフィールを見せる。彼は各瞬間に新しいディテールを経験するだろうが、そのとき塔はその都度新しい塔へと変化するわけではない。塔は、むしろ、多種多様な知覚を通じて現前しながらも同一であり続ける一つの統一された「志向的対象」なのである。塔はつねにある特定のプロフィールを通じて出会われる。このことを、フッサールは“射影”(Abschattung)と呼んだ。(……)対象とは、その内容が何度も絶え間なく変化するにもかかわらず、つねに同一であり続けるものなのだ。(QO, pp.43-44.)

 ここで注目すべきは、志向的な対象は射影(その時々現れる対象のプロフィール)の“束”ではない、ということである。ここでは対象の形相が、性質を「足し合わせる」ことによって得られるものではなく、逆に射影を「差し引く」ことによって得られるものだとされている(いわゆる「形相的還元」というやつだ)。例えば目の前のリンゴは、丸みを帯びているとか、甘いとか、赤くツヤツヤしているとか、冷たく固い肌触りであるとか、とにかく多様な偶有的特徴で覆われている。ぼくがその対象を「リンゴ」として認識できるのは、それを様々な角度から観察したり、味わったり、肌触りをよく確認したりしながら、対象が変化する様子を様々な仕方で確認し、それでも変化しない核心のようなものを認識するからである。時間や空間の変化によって移り変わる質感と、時間や空間の変化に抗する持続性を見極めること。これによってぼくらは事物を特定の対象として認定している。そのために必要な作業は、対象を覆う無数の偶有的特徴をひとつひとつ引き剥がしていくことである。これは一般化とか、あるいは抽象化とかいうものとして理解していいと思う(これに関し、中田光雄はフッサールの『幾何学の起源』を分析するなかで「理象」という表現を用いていた)

 混乱が伴う「志向的」という用語の代わりに(例えば、分析哲学者はしばしば志向的対象を人間の意識の「外部」にある対象のこととしている)、ハーマンは「感覚的(sensual)」という用語を用いることを提案している。「感覚的」という用語は、あくまで意識の内側の問題を扱っているということが明確である、と。これによって、フッサールの議論を、同一性を保ち続ける「感覚的対象(sensual object)」と、様々に移り変わる「感覚的性質(sensual qualities)」の間の緊張として理解することができる。

 

実在的性質

 しかしそれだけで議論は不十分である。たとえば目の前のリンゴAとリンゴBが、ほとんど同一の感覚的プロフィールを所持しているとしよう(少なくともぼくにはそう「見える」)。しかし、両者はあきらかに別個に存在しているし、異なるオブジェクトであることは明らかだ。どちらも「リンゴ」というカテゴリーに属しており、両者の差異はぼく自身の視点からは認知できないものの、両者の間には明らかに、カテゴリーには還元できない何らかの差異が存在する。ハーマンはこのような、対象がそれ自身であるために、個体であるためにどうしても必要な形相的性質を、「実在的性質(real qualities)」と表現する。

ここで私たちが手にしているのは、一つの感覚的対象と様々な実在的性質という奇妙な組み合わせである。奇妙というのは、形相的性質は、感覚的対象が存在するために必要であるが、あらゆるアクセスから退隠しているからだ。(……)この特定のオウムをそれ自身たらしめているものを分節するには、実在的な性質の分析が必要なのであって、この性質は裸の状態では決して現前することがなく、ただ知性によって暗示的ないし遠回しに示唆されることしかできないのである。(QO, pp.50-51.)

対象の感覚的な性質をひとつひとつ「引き剥がし」(これはまさに「分析」するということそのものであるが)、対象の形相的性質を垣間見ることが、フッサールにとって理論的意識の役割であった。しかし、フッサールは形相の適切な直観(知性の働きによるカテゴリー的直観)が可能であるとしている一方で、ハーマンは形相への直接的なアクセスをはっきりと否定しており、それはただ間接的に、暗示(allusion)によってのみ可能としていることに注意しよう。

このようにして、感覚的対象は、宇宙における二つの重要な緊張ーー感覚的対象vs感覚的諸性質、感覚的対象vs実在的諸性質ーーにとって交差点の役割を果たしている。(QO, pp.55-56.)

感覚的性質(アクセス可能なプロフィール)と実在的性質(アクセス不可能なプロフィール)の交差点としての統一的ユニットとしての対象。これを見出したことがフッサールの重要な発見だったと。とはいえ、フッサールの議論はあくまで観念論にとどまるため、このままでは意識の外側にを扱うことができない。そこでハーマンは、フッサールの再解釈によって得たこれまでの知見を、ハイデガーへと接続していくのである。

 

複数のパースペクティヴ

 ここで少し話を脱線しよう。ハーマンは、意識に現前する対象(感覚的対象)のもつ「秘密」として、実在的な性質を設定した。ぼくにはこの問題が「対象=オブジェクト」を問題の中心に置くことによってもたらされている条件であるように思われる。対象とはそもそも、特定の視座=パースペクティヴに依存した概念である。そして感覚的な対象の「秘密」は、他のパースペクティヴを想定したときに必然的にもたらされるものだということだ。第3者のパースペクティヴを「留保」しているような感じ。

 たとえば人間には紫外線を見ることができないが、昆虫は紫外線を見ることができ、逆に赤色が見ることができない。だから人間は赤からスミレ色までの色が均等に反射されているものを「白い」と感じるが、彼らにとって白とは、黄色から紫外線の光が均等に反射されている色である。ぼくらはモンシロチョウのオスとメスを簡単には見分けることができない。しかし有名な話だけど、モンシロチョウのメスの翅の裏は紫外線を反射する性質を持っていて、ゆえに、性的に動機づけられたモンシロチョウのオスにとって、メスの翅の裏の紫外線と黄色の混ざった色は彼らにとって非常に重要な意味をもった色として認知されているはずだ。キャベツ畑において、光を反射してキラキラと輝くメスの翅を、彼らは、それこそ「奇跡的な」存在として深い感慨を持って認知しているかもしれない。*8*9

 「白」という色も、そして「モンシロチョウ」という名も、実は相対的なもので、あくまで人間からのパースペクティヴを前提とする限りのものである。ぼくらはモンシロチョウのメスがもつ「奇跡的な輝き」を永遠に実感することができない。しかし、その性質はぼくらには永遠に観測することができないものの、絶対的に存在している。そしてこれは、フッサール的には知性の働きによって、ハーマン的にはただ「暗示」によって知ることができるものだ。ここから先はぼくの想像になるが、ぼくらがモンシロチョウのメスの輝きを「暗示」として認知することができるのは、それを認識することができるオスの奇妙な行動があるからである、ように思う。つまり、第3者の環境世界での布置を通じて、ぼくらは「暗示」を受け取っている。このときオスは人間にとって、不可知(メスの翅の輝き)を認識するための媒介=メディウムとして働いている。

 ハーマンが区別する「感覚的性質」と「実在的性質」は、あくまで図と地の関係のようなものなのではないかと思う。実在的性質は、対象の絶対的な「秘密」というわけではなく、ぼくらが人間である限りモンシロチョウの輝きを認知することができないように、あらゆるオブジェクトに、他のパースペクティヴによる(私-パースペクティヴからは認知できないような)性質が潜在している、ということなのではないか。地球にいる限り、月の裏側を観測することが困難であるのと同様に。であれば、ぼくらはパースペクティヴを適宜切り替えることで、対象の形相をなんとか間接的に知ることができるということになるだろう。しかし前述したように、ハーマンの議論はここで終わらない。この点は人類学における遠近法主義を否定してスケールに関する独自の解釈を展開したマリリン・ストラザーンの方法とかなりシンクロするようにぼくには思える。

 ハーマンがハイデガーの道具分析を再考することを通して提示する次なるアイデアは、あらゆるパースペクティヴからのアクセスからも引きこもった、オブジェクトの絶対的な秘密(実在的対象)であり、さらに他者との関係を一切絶った「眠ったオブジェクト」の存在可能性である(これもまた、ネットワークの切断を強調し、強制的・間欠的な「穴」──カントールの塵──を導入するストラザーンの議論とシンクロしているように思える)。意識に現前する対象(感覚的対象)における「秘密(実在的性質)」が、あくまでパースペクティヴの複数性を前提とした「図と地」の「地」にあたるものであるとしたら、オブジェクトの絶対的な秘密(実在的対象)は、パースペクティヴの切り替えの「交点」そのものの存在を示唆するものであるように思える。

 

 


3. ハイデガーの道具分析と実在的対象

 ハイデガーの道具分析をラディカルに読み替えることで、ハーマンは対象のもつ「あらゆるアクセスから引きこもった秘密」を一般化する。OOOにおいては、眼前性が現存在への依存を意味する一方で手許性は退隠する道具の独立を意味するという、独特なハイデガー解釈が展開されている。少し遠回りになるが、ここではハイデガー『存在と時間』の基本的な内容をざっくりとまとめてみよう。それを通して、難解なハイデガーの哲学をいかに換骨奪胎して単純な図式に落とし込んでいくのか、ハーマンのそのあざやかな手付きを見届けることにしよう。

 『存在と時間』でひとまずおさえておくべきは、「現存在」「世界内存在」「道具連関」の3点だろう。これら、たった3つの公理的な概念から出発し、あらゆる概念を順繰りに制作していくという作業の痕跡が、『存在と時間』にほかならない。この最も基本的なタームの整理から始めよう。

 

現存在(Da-sein)

 現存在とは、「存在論的に正確に定義された主体概念」と捉えておいてひとまず問題ないだろう。「自己の了解」によって規定される存在、すなわち、自分にとっての自分の存在、が現存在であり、ハイデガーは「現存在とは、みずから存在しつつこの存在に向かって了解的に態度をとっている存在者である。*10というような仕方で表現する。現存在は、自己が現に存在しているわけだから、その実在性が保証されている。ゆえに存在論のスタート地点となるものだ。

 現存在のいくつかの性格を確認しよう。現存在はひとごとでない自己の存在を、ある意味でひとつの「事実」として、事実上現実に存在しているという意味で了解している。ハイデガーは、各々の現存在がそのつど事実として確かに存在しているということを、現存在の「事実性」(Faktizitat)と名付ける(Ibid.)。さらに、現存在には各自性(Je-meinigkeit)という性格がそなわっているので、人称代名詞を要求するものであるが(SZ, §9)、一方でそれは、ときとしてたんなる客体的存在者として受けとることもゆるされる(SZ, §12)

 ハイデガーにとって、1: 「それがなんであるか」に先立ち「それは存在している」、さらに、2: 各々の存在者は各々自身を事実とみなしている。ハイデガーは世界において客観的に存在するもの──客体的存在(Vorhandensein)──を議論からひとまず排除し、現に存在する私──現存在──を絶対化するのだ。

 

世界内存在(das Inder-Welt-sein)

現存在には本質上、「なんらかの世界の内に存在する」ということが属している。したがって、現存在に本属している存在了解は、同根源的に、「世界」というようなものの了解と、世界の内部で接しうる存在者の存在についての了解とにも及んでいるのである。(SZ, §4)

 私は、私が存在している絶対的な事実を認識する。そして自己を認識する際にあらわれるのは、そもそも自己が、よりも包括的な「世界」の内部に属している、という事実である。世界が私を包摂しているという構造そのものを、ひとまず認めなければならないだろうと。このとき、認識が「主観」と「客観」(「私」と「世界」)を作るわけではないことに注意しよう。「私」は“そもそも最初から”「世界」の内に存在しているのであり、認識というのは、「世界」にもとづけられた現存在の一様態にすぎない。ハイデガーの議論において、「世界」とは、あらゆる存在者を包摂する領域の名称ではなく、事実としてある存在が現に「その内で」「生活して」いる“ところ”を意味している。ハイデガーは「世界内存在」というタームによって、世界に私が包摂されているという事実的な構造そのものを表現しようとする。さらに、「世界」に対する認識に関して、ハイデガーは以下のように書いている。

かりに隙間がゼロであったとしても、机は原理的に、壁に触れることができないからである。《触れる》ことができるためには、壁が椅子に《向かって》出会うことができるということが、前提条件になるであろう。(……)世界の内部で客体的に存在していて、その上、それ自体において「無世界的」であるようなふたつの存在者は、決して《触れあう》ことがありえないし、一方が他方の「もとにある」ことはありえない。(SZ, §12)

 ハイデガーによれば、存在を理解するという働きには、「いつでもそれについてそれの《……として》(als)が浮かびあがりうる」(SZ, §32)という構造を指摘することができるという。ハイデガーによる有名なテーゼを思い出そう。①石は世界をもたない。②動物は世界が乏しい。③人間は世界を形成する。ハイデガーは存在を、「…として」理解する構造を、「現存在」という術語が与えられた人間に固有のものとして与え、石や動物の世界と人間の世界を分かつ。これはまさにOOOとは対比的な世界の認識であるといえよう。しかし、いったいどうやってこうしたハイデガーの議論を引き継ぎつつ「石そのもの」の方へいけるのだろうか。その秘密は次の道具分析の項目に隠されている。

 

道具連関

 まず、「われわれは、配慮*11 において出会う存在者を、道具(das Zeug)となづける。(SZ, §15)。道具を道具としてあらしめる性質(道具性)は、次のように輪郭づけられる。少し長いが、重要な箇所を引用してみよう。

厳密な意味では、ひとつだけの道具は決して「存在」しない。道具が存在するには、いつもすでに、ひとまとまりの道具立て全体がなければならない。(……)道具というものは、本質上、《……するためにあるもの》である。この《……するためにある》ということは、有用性、有効性、使用可能性、便利性というようなさまざまな様態があるが、これらがひとまとまりの道具立て全体の全体性を構成している。《……するためにある》という構造のなかには、「なにかをあることへ向けて指示する」ということが含まれている。(SZ, §15.)

道具というものは、──その道具性に応じて──いつもほかの道具との帰属にもとづいて存在している。インク・スタンド、ペン、インク、紙、下敷、机、ランプ、家具、窓、ドア、部屋は帰属している。(……)一番さきに出会うものは、主題的に把握されはしないが、部屋である。そしてそれも、幾何学的空間の意味で「四つの壁の間」としてではなく──住む道具としてである。この部屋のなかから、備えつけられた「調度」が現れてきて、そしてこの備えつけのなかで、それぞれの「個別的」な道具が現れてくるのである。個別的な道具に気づく以前に、いつもすでに道具立ての全体性が発見されている。(Ibid.)

ハンマーがたんなる事物として眺められるのではなく、それが手っ取りばやく使用されればされるほど、ハンマーに対する関わり合いはそれだけ根源的になり、ハンマーはそれだけ赤裸々にありのままの姿で、すなわち道具として出会ってくる。(……)道具がこのようにそれ自身の側から現れてくるような道具の存在様相を、われわれは“用具性”(Zuhandenheit)となづける。(Ibid.)

 たとえばハンマーは釘を打つためにあるが、ハンマーや釘が共に用いられるのは、制作すべき作品、たとえば靴や時計があるからである。そして靴や時計といった制作物は、歩く“ため”、時を知る"ため”など、「使用可能性が向けられているところ=用途」をあらかじめ含みこんでいて、これがハンマー・釘・私の関係性を有機的に結び合わせる。さらに靴や時計といった制作物は同時に、「材料への指示」(靴が材料である靴・紐・釘に依存している)もある程度持ち合わせている。また、当の道具であったハンマーや釘もまた「制作物」であり、鉄や木材、鉱石を指示する道具である。さらに、制作された靴や時計は利用者への指示を含み持っている。

道具を使用し操作する交渉は盲目ではなく、それには固有の見方がそなわっていて、これが操作をみちびき、それに特有の即物性を与えている。(……)道具=用具的存在者との様々な交渉は、道具が《……するためにある》という多様な指示によって規定されている。(Ibid.)

道具は、こうした「指示」が複雑に交錯するネットワークのなかに位置づけられている。事物がこうした道具連関のなかにあり、存在者が用具的であることを、ハイデガーは存在論的=カテゴリー的規定とみなす。あらゆるものがある種の道具である、と。ぼくらは目的に応じて、こうした各々の道具の「指示」を読み取り、(自らも「道具」としてそのネットワークに組み込まれながら)適切に道具を扱うと同時に、ある種の制作行為として、こうした道具の指示のネットワークを組み替えたり、変化させたり、意図的に切断したり、意外なところでつなぎ直したりしもしているのだ。

 ぼくらは、こうした事物の道具的な連関を「見ること(Sicht)」によって認識し、道具同士の指示関係を判断して、日々それらと交渉している。この、道具の指示作用を見抜くようなモードを、ハイデガーは「配視(Umsicht)」と表現する。例えば友人の家をはじめて訪ねるとき、ぼくらは玄関の前にたち、ドアらしきものを確認して、そこに取り付けられた金属でできた何かを発見する。ぼくらはそれをドアの開閉を用とするモノ=取っ手であるとみなし、それが含みこむ「時計回りにひねる」という指示を了解した上で、それを実行する。ぼくらはそれを「見て」いる(道具の眼前性)。しかし道具と交渉するときのぼくらは、いつでも道具の存在を意識しているわけではない。むしろうまく機能している道具ほど、ぼくらはそれを無意識に使う。自宅のドアの取っ手をことさら意識することはあまりないように、道具が手許でうまく機能しているとき、それは控えめであり、しばしば無意識に使用される(道具の手許性)。ぼくらは普段、心臓やコンタクトレンズを意識し続けて生活しているわけではない。それらは普段、ぼくらの意識から退隠(withdraw)しているのだ。*12

 

「近さ」と「布置」による空間へのアプローチ

 ということで、「現存在」「世界内存在」「道具連関」というもっとも重要な存在の条件を、かなりざっくりだがまとめてみた。ハイデガーはこの3つの概念を組み合わせ、思弁的に展開させていくことで、他の様々な概念を説明していくことになる。たとえば「時間」について。まず、現存在はそもそも世界に存在している。一方で、ある瞬間には自分で自分自身の存在を認知している。たんに存在している地点から、自身を了解する地点へ、この明確なワンステップに、「時間」の一様態をみることができるだろう。また、現存在と世界内存在の間に道具連関を挟み込むことで、「他者」の解釈もおこなわれる。「私」(現存在)と「あの人」(他の現存在)は、道具連関によって接続されながら、世界に共同存在しているのだと(SZ, 第4章)。では「空間」はどうか。最後に、『存在と時間』での空間へのアプローチを詳しくみていくことで、ハイデガーが「現存在」「世界内存在」「道具連関」という概念をどう具体的に組み合わせて新たな概念を彫琢しているかを確認し、今回の目的、すなわちOOO読解の前提となるハイデガー哲学の復習を終えようと思う。

 ハイデガーにとって空間は、決してあらゆる存在の前提となるアプリオリな(非経験的な)条件ではなく、上記の3つの概念を駆使して解釈されるものだ。このような空間へのアプローチは、「コギト(思惟する私)」からスタートして、「空間」と「時間」をアプリオリな前提として用いることで「私」を延長し「世界」へとアクセスするデカルトがおこなったような方法とはまさに真逆の発想であるといえる。そして、こうしたアプローチで定義される空間性もまた、デカルト座標のようないわゆる「絶対空間」とはまったく異なるものである。

 さっそくみていこう。まず現存在は、自分がいる《ここ》を、より包括的な環境《あそこ》をもとにして了解している。身の廻りには種々雑多なモノがうごめいていて、私から隔たって存在しており、それらは目的に応じた指示連関のネットワークをつくっている。これがまず前提となる。

道具はその場所におさまっているか、さもなければ「散らかって」いる。(……)その道具全体の場所柄的な適当性の根底には、さらにそれの可能性の条件として、全般的な「所属」があって、道具連関はこの「所属」の内部でひとまとまりの場所を当てがわれるのである。(SZ, §22)

たとえば重力や太陽の位置はある特定の方向性を道具連関にあたえ、道具の「所属」を規定する強力な指標になる。ぼくら建築家はよく知っているけれど、日の当たる南側に庭を置き、東側にダイニングがあって、北側に水回りがおいやられるという典型的なプランニングは太陽の方向性に規定されたものだし、建築物の構造体の組成における様々な工夫は重力との長い間の闘いの結果生み出されたものだ。ハイデガーが一義的に想定する空間は、こうした道具連関の「方向性」を前提として、現存在によって相対的に規定される空間である。この空間性は「開離」と「布置」という概念で説明される。

開離するというはたらきは、さしあたりたいていは、配視的に近づけること、すなわち、調達するとか、整備しておくとか、手もとにそなえているとかいう形で、近みに組みよせることである。(……)眼鏡をかけている人を例にとると、その眼鏡は、彼の「鼻にかかっている」ほど近くにあるけれども、彼自身からみると、このように使用されている道具は、環境的には、向こう側の壁にかかっている絵よりもなお遠くに開離されている。(SZ, §23)

開離する内=存在として、現存在は同時に、“布置する”という性格をもっている。(……)現存在の「身体性」における空間化は、ここでは取り扱うことのできない独自の問題性をうちに含んでいるけれども、その身体的空間化はこれらの左右の方向という点でも顕著な特徴をそなえているたとえば手袋のように、両手の運動をともにしなくてはならない身体用の用具が、左右に布置される必要があるのは、このためである。(Ibid.)

ハイデガー独特の表現でとてもおもしろいと思うのだけど、眼鏡をかけた私が絵に没入しているとき、注意してみている絵は私にとって「近い」(眼前性)のに対し、無意識にかけている眼鏡は「遠い」(手許性)、と。一方となりにいるBさんからすれば、眼鏡と私はとても近い。BさんはBさんの位置から、私と眼鏡の関係を位置づけている。

 各々の現存在は、身の廻りの環境に散らばっているモノとのユニークな「近さ」と「遠さ」をそれぞれにもっていて、そして各々の位置から、各々の仕方でモノを位置づけている。私は"ここ”にいて、“あれ”を見る。私は私という視点から、空間の場所柄をその都度構成している。ハイデガーにとっての空間とは、ある環境の内部にいる私=現存在が、その環境を構成する道具のネットワークを私なりの仕方で読み取り、配置することで組み立てられる。

 ハイデガーの復習はここまでとしよう。これまで確認したように、ハイデガーは内からの現象学を進める、徹底した人間中心主義であった。一方でハーマンは、ハイデガーにおける人間中心主義的な議論を徹底してオミットし、そこからこぼれ落ちる、事物の実在性へ向かういくつかの認識を明確にし、対象そのものに向けた理論を形成していく。

 

実在的対象

 ハーマンの記述の分析に戻ろう。これまでみてきたように、ハイデガーは事物の道具的な存在の仕方を、事物の原初的な本性として論じている。かんたんにまとめるとそこでの指摘は、まず対象のほとんどが心に対して決して明示的に現前しておらず、それらはむしろ控えめで手許にあるという存在様態を有しているということだった(手許性)。私たちはある対象に注目し、よく見ることで、それを近み(手前)に引き寄せるのだけれど(開離)、そうでなければどんな存在者も、謎めいた背景の中に住まう傾向があるのだった。

要するに、道具は道具である限り、全く不可視なのだ。そして、道具が不可視であるのは、それが何らかの目的を果たすために消え去ってしまうからである。(QO, p.64.)

存在者は自らを現前させ、自らのある側面で他の存在者とコミュニケーションをとるけれども、ほとんどの場合、静かな地下世界へと退隠している。それはシャベルや熊手といったわかりやすい道具にかぎらず、「色や形や数でさえ、いずれもみな、実在性を有しており、その実在性は、それらを特定の仕方で思考することで完全に汲み尽くされるものではない(QO, p.66.)のだし、「こうした存在者も、木製や金属製の製品と同じように、手許性と手前性という包括的な二元論のうちに組み込まれているのだ(QO, p.67.)

したがって、フッサールの主張とは反対に、事物の通常のあり方というのは、現象として現れることではなくて、人目につかない地下領域に退隠することなのである。通常私たちが道具に気づくのは、それが何らかの仕方で機能しない場合のみである。(QO, p.65.)

ハイデガーの主張のうち、ハーマンが最も重要視するのはこの部分である。すなわち、世界はことごとく、「道具」と「壊れた道具」によってできているのだ。しかし、実は既にこの時点で、道具分析の一般的な解釈とはずれている。具体的に、ハーマンは従来の道具分析の解釈、たとえば「意識的な気づきの発生には、無意識的な事物の使用が先行している(QO, p.70.)というプラグマティスト的な解釈を不十分だとしている。手前性と手許性は、事物への「意識的な気づき」と「無意識の実践」を単に示すものではない、と。なぜならぼくらは、たとえ「実践」によっても事物を汲み尽くしてはいないからだ。

「立っていること」は、床のほんの一握りの性質──例えば、硬さや丈夫さ──に依存している。「立つための道具」としての床の私たちによる使用は、犬や蚊であれば検知するかもしれない他の多くの性質にはふれてはいない。要するに、理論と実践はいずれも等しく、事物を手前性に還元するという罪を犯しているのである。(……)道具分析による基本的な対立は、意識と無意識の間にあるのではない。真に重要な亀裂は、対象の退隠した実在性と、理論“と”実践によるその対象の歪曲との間にあるのだ。(QO, p.71.)

床は、自分以外の存在者の使用にも開かれており、その分だけ、私には感知できない過剰な情報量をもっている。これは、以前に感覚対象の実在的性質として考察したものだった(他の存在者のパースペクティヴの留保)。すなわちこれはあくまで、ハーマンの議論においては「感覚的対象」での問題ということになる。ハンマーはいくら抽象化・理論化して意識しても、あるいはいくら無意識的・実践的に使用しても、それは「感覚的」なハンマーであり、戯画化されたハンマーであることには変わらない。そして、無意識的・実践的なハンマーの使用によっても汲み尽くすことのできなかったハンマーの実在的な「深さ」は、それが壊れたときにのみ気づくことができるのだ。

 「意識的な気づき」と「無意識の実践」という仕方で道具の手前性と手許性を解釈するのではなく、「道具」と「壊れた道具」によって道具分析を解釈すること。これが、ハーマンによるハイデガーの道具分析の、ひとつの大きな修正である。さらにここからハーマンは、決してハイデガーが同意することのないだろう道具分析の根本的な修正をおこなっていく。

事物の存在があらゆる理論と実践の背後に隠れているという主張は、人間的現存在が有する何らかの貴重な長所や短所に由来する事態ではなく、どんな関係も──無生物な関係でさえ──それが関わるものを翻訳ないし歪曲してしまうという事実に由来することだからである。火は、綿を燃やすとき、この素材の可燃性とだけ接する。火は綿の匂いや色には決して作用しないだろうが、それはこれらの性質が感覚器官を備えた生物だけに関わるものだからである。たしかに火は、自らが把握できない様々な性質を変化させたり破壊したりすることができる。しかしそれは間接的になされることなのである。綿の存在は、それが焼き尽くされ、破壊される場合でも、炎から退隠している。(……)対象の退隠は、人間やいくつかの賢い動物だけを悩ます認知的トラウマではなく、あらゆる関係の恒久的な不十分さを表現しているのである。(QO, pp.73-74.)

ここは本当に重要なジャンプだ。ハーマンは、カントのコペルニクス的転回(人間と世界の関係が他のあらゆるものを優越するという認識)に逆らい、この一点においてハイデガーを形而上学へと追いやり、むしろ「人間的存在者と非人間的存在者は皆、他の事物を抱握(prehend)し、それに対し何らかの仕方で関係する限りにおいて、いずれも全て等しい身分をもっていると言うことによってカント的な先入観を破棄した(QO, p.76.)、ホワイトヘッド的立場をとる。ハイデガーにおける「世界」と「現存在」の特権的な関係をホワイトヘッド的に解体するのだ。他方、ハーマンはハイデガーが示したような「存在の底のなさ」も採用するので、単純な関係主義にいくというわけでもない。このバランスが面白い。

 ハーマンは、ハイデガーの道具分析を修正したモデル──①存在は、意識的な分析や無意識の実践によっては決して汲み尽くすことのできない「深さ」をもっている。すなわち存在はいつもあらゆる相互関係から退隠した「秘密」をもった「過剰」なものであり、私たちは「壊れたとき」にのみその存在の過剰さを暗示的に知ることができる。②これは人間的現存在のみに由来するものではなく、無生物的存在者を含めたあらゆる存在に適応できる主張である──を、「実在的対象(real object)」と表現する。

実在的対象は、二つの点で感覚的対象と異なっている。第一に、実在的対象は、それが出会うあらゆるものから自立している。感覚的な木は、私が寝たり死んだりして目を閉じれば蒸発してしまうのに対し、実在的な木は、感覚を有する全存在者が私とともに破壊されようとも、成長し続ける。第二に、感覚的対象がつねに経験の内にあって自らの性質の背後に隠れたりすることはないのに対し、実在的対象はつねに隠れていなければならない。(QO, p.79.)

実在的対象は感覚的対象と同様に、感覚的性質と実在的性質という2種類の分極された性質をもっている。道具分析であきらかになったように、あらゆるアクセスから退隠した実在的な対象をぼくらは壊れた瞬間に暗示的に知ることができるのだけれど、それは感覚的ないくつかの性質を通じて意識に現前しているからである、と(ハイデガーの「手前性」と「手許性」)。また、実在的対象は他の実在的対象と区別されるための多数の性質をその内に潜ませている(ハーマンはこれをライプニッツのモナドの議論と接続している)

 こうしたハーマンの主張を一旦受け入れてみると、さきほど取り上げた下のようなハイデガーの記述も、また違った“趣”で読めるようになるだろう。

かりに隙間がゼロであったとしても、机は原理的に、壁に触れることができないからである。《触れる》ことができるためには、壁が椅子に《向かって》出会うことができるということが、前提条件になるであろう。(……)世界の内部で客体的に存在していて、その上、それ自体において「無世界的」であるようなふたつの存在者は、決して《触れあう》ことがありえないし、一方が他方の「もとにある」ことはありえない。(SZ, §12)

机と壁は、各々に強固な自律的実在性をその内に潜めているので、決して「触れ合う」ことはないが、ハーマンによれば、私と机の間でも同じような事態が起こっているのだ。

 

 ハーマンはこれまでの議論をまとめ、以下のような四つ組のダイアグラムを提唱する。ハーマンはフッサールとハイデガーの主張から、彼ら自身の認識からもこぼれ落ちている可能性を拾い上げ、それらをハイブリッドさせることで、もはや完全にオリジナルな実在論を組み上げている。既存の議論から、いかにして新しい認識を生んでいくか。このハーマンの手付きこそ、ぼくらは参考にすべきかもしれない。

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△The Fourfold Structure Emerges, "The Quadruple Object", p.50より

ハーマンはこの図式を以下のように概説する。

感覚的対象(sensual object)と感覚的性質(sensual qualities)のペアは、フッサールの最初の偉大な発見である。感覚的対象は完全に現前してはいるが、つねに偶有的な特徴とプロフィールの霧に包まれている。彼の第二の偉大な発見は、感覚的対象と実在的性質(real qualities)の結合である。意識における現象は、確固たる性格をもたなければ、空虚な統一的極となってしまう。そうした性格は、感性的直観ではなく知性によってしか捉えられない実在的な形相的性質から成るものであった。実在的対象(real object)と感覚的性質の対は、ハイデガーの道具分析の主題である。道具分析においては、地下に隠されたハンマーが、思考ないし行為にアクセス可能な表面を介して、どうにかして感覚的現前へと翻訳される。最後に実在的対象と実在的性質のペアの存在によって、実在的対象は、確固たる性格を欠いた空虚な統一的実体であることなく、他の実在的対象と互いに異なることができる。こうしたモデルをより詳細に発展させることで、私たちは新しい哲学の入り口に到達することになるだろう。(QO, pp.81-82.)

 
 さて、ようやくOOOのスタート地点まで来ることができた。あらゆる対象がもつこの4つの極からは、10の組み合わせを得ることができる。ハーマンはこの組み合わせを検証していくことで、自身が提唱する実在論のより具体的な解説をおこなっていく。

 オブジェクト指向の建築(OOA)への助走はここまでにしておこう。この続き(建築とどう接続するかという問題について)は途中まで書いているのだけれど、本業の研究や設計が忙しくなって手がとまってしまっている状況。気が向いたら続きをまとめるかもしれないけれど、ひとまず、そのための土台となる基本的な認識はまとめることができたのではないかと思われる。

 

*1:Log33 Winter 2015やa+u 2017年5月号 「特集:米国の若手建築家」、現代思想2015年6月号における磯崎新と日暢直彦の対談等を参照のこと

*2:米国の動向を積極的に日本に紹介しておられるのは平野利樹さんである。平野さんが翻訳されたデイヴィッド・ルイの論考は必見。http://10plus1.jp/monthly/2016/12/issue-03.php

*3:米国の動向のオルタナティヴとしては、2013年にロンドンでおこなわれた「Architecture on Harman, Harman on Architecture」というカンファレンスがまず挙げられるだろう( Series #1 | The Architecture Exchange )。ここではPatrick Lynchをはじめとした、ヨーロッパ(というかイギリス)を拠点とする建築家や研究者が集められていたようだ。本カンファレンスに参加しているペグ・ローズ(Peg Rawes)という女性の研究者は、個人的にいま世界で最も興味をもっている研究者のひとり。ちなみに彼女の発表は、いまのところYoutubeで聞くことができる。AE1 Peg Rawes - Nonhuman Architectural Ecologies - YouTube

*4:Harman, Graham: The Quadruple Object, John Hunt Publishing, Zero Books, 2011 / 邦訳『四方対象 オブジェクト指向存在論入門』, 岡嶋隆佑監訳, 人文書院, 2017, p.19. / 以下、QOと略記。なお本稿では基本的に邦訳のページ番号を示すこととする。

*5:Meillassoux,Quentin: After Finitude : Essay on the Necessity of Contingency, trans. R. Brassier. (London : Continuum, 2008.) / 邦訳『有限性のあとでーー偶然性の必然性についての試論』, 千葉雅也ほか訳, 人文書院, 2016 / 原著の仏語版は2006年発行

*6:Shaviro, Steven: The Universe of Things: On Speculative Realism, Univ of Minnesota Pr, 2014. / 邦訳『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』, 上野俊哉訳, 河出書房新, 2016.

*7:Harman, Graham: The Road to Objects, continent 1.3, 2011. / 邦訳『オブジェクトへの道』飯盛元章訳, 現代思想, 2018.1. / 以下、ROと略記。

*8:例えば→ http://karapaia.com/archives/51350804.html

*9:ここでは簡単のため、昆虫と人間のいわゆる「環世界」における差異を例に出している。ただ、ユクスキュルの環世界モデルは十分に魅力的である一方で、極論すれば神経系をもたないモノに関しては何もいうことができず、無機物はおろか、植物の認知世界に関しても十分に扱えない。OOOのもつ「動物」から「石」への跳躍は重要である。ただし、次節であつかうハイデガーの「世界内存在」のモデルがユクスキュルだったという説もあり、あながち遠い問題でもないのかもしれない、とも思うのだけれど。

*10:Heidegger, Martin: Sein und Zeit, 1927, §12 / 邦訳『存在と時間』, 細谷貞雄訳, 筑摩書房, 1994 / 以下SZと略記し、セクション番号を示すこととする

*11:《なにかに関わりをもつ》、《なにかを制作する》、《なにかを整頓し、手入れをする》、《なにかを使用する》、《なにかを棄てたり、なくしたりする》、《企てる》、《やり通す》、《探す》、《問いかける》、《考察する》、《論ずる》、《規定する》(……)内=存在のこれらの様式は、なお立ちいって記述するような、配慮(Besorgen)という存在様相をそなえている。配慮の様式には、《やめる》、《怠る》、《諦める》、《休む》というような欠如的様態もぞくしており、またさまざまな配慮の様式に対応して、《ただ……するだけの》という様態もぞくしている。(……)われわれの考究では、「配慮」という言葉を存在論的用語として、なんらかの世界=内=存在のありかたを指すためにもちいる。(SZ, §12)

*12:

 「眼前性(手前性)」と「手許性」という対比的なモードは、道具に限らず様々な存在者に向けて、非常に広範な応用範囲をもった重要な概念であり、この対比により理解することができる現象は多い。たとえば壊れるということと、記号の役目である。

①壊れた道具

 手許でうまく機能するモノが、突如として強烈に意識されることがある。それは、道具が“壊れる”ときである。

手近なものごとにたずさわっているうちに、それらの用具的存在者のひとつが使用不可能になっていることに気づき、その特定の用途にそぐわないことに出会うということがある。(……)使用不可能性を発見するものは、それらの事物の属性を眺めやって確認するという態度ではなく、それらと使用的に交渉する配視である。それが使用不可能性を発見するときに、その道具が目立ってくる。その目立たしさが、用具的存在者をある意味の不用具性において現示する。それは、役に立たないものがただそこにある、ということである。(SZ, §16)

②道具としての記号

 道具は控えめであり、目立たないのだけれど、それゆえうまく機能しているものだ。しかしだからこそこのとき、無意識下に置かれた事物を「目立たせる」工夫として、「記号」が道具的に制作されることになる。

記号とは(……)ひとまとまりの道具立て全体をことさら配視に浮かびあがらせて、それと同時に、用具的存在者の世界適合性が通示されるようにする道具である。(……)世界の内部で身近に存在しているものの存在には、われわれが上に記述したように、自分を控えていて立ち現われてこないという性格がある。それゆえ、環境世界の内での配視的交渉は、その道具性格上、用具的存在者を目立たせるという役目をひきうける手許の道具を必要とするわけである。このような道具=記号の制作にあたって、それの目立たしさに留意しなくてはならないのは、このためである。(SZ, §17)