人類学者のスケール論 / M.ストラザーン『部分的つながり』①

 

0.

 人類学者マリリン・ストラザーンの『部分的つながり』に度々登場する「スケール(尺度)」や「プロポーション(釣り合い)」、「パースペクティブ」といった言葉は、一見すると建築畑の人間にとってはとても馴染み深いものだ*1。しかしぼくらが反射的・制度的に捉えてしまうそれらの用語の定義と、人類学者によるそれは微妙に異なっていて、これは大変示唆に富む部分だった。

スケールを変化させるという言葉で、私は、人類学者が資料を組織化するときに決まってする、現象に対するひとつのパースペクティヴからから他のパースペクティヴへの切り替えを指している。このパースペクティヴの切り替えが可能なのは、世界が本来的に複数の存在ーー多様な個体や集合や関係性ーーから構成されているという自然観があるからである。そして、それら構成要素の特徴は分析の枠組みに基づいて常に部分的にしか記述できないとされている。 (ストラザーン, マリリン: 部分的つながり, 大杉高志+浜田明範+田口陽子+丹波充+里見龍樹訳, 水声社, 2015, p.22.)

 人類学者の仕事の多くは、対象に関する膨大な情報をいかにして組織化していくか、ということに費やされる。観察者がどのように資料を照らし合わせ体系化するのか、ということに注目したときに「スケール」が問題となるのだけど、これは人類学者固有の振る舞いとかいうわけではなくて、僕らが物事に関してある観察を行うときに普通に行っていることだ。

 例えば「千葉の地理情報」ついて調べようとしたとき、僕らは日本の中で千葉がどの辺に位置しているのかという問題と、千葉のなかにはどのような市町村が存在していて、それらはどういった位置関係にあるのかという問題、あるいは東京から館林までの距離といった問題など、異なる視点(パースペクティヴ)から「千葉の地理情報」を調べるということを、ごくごく自然におこなう。異なる視点から得られる断片的な情報をつなぎあわせて「千葉の地理情報」という全体を獲得しようとする。このような、ある物事を観察し分析するときにおこなう、レンズの倍率を変化させるようなスケールを行き来、パースペクティヴの切り替えこそが、人類学におけるスケールの問題ということになる。このようなスケール(尺度)・パースペクティヴ(視点)を自由にスイッチするスキルは、西洋の多元主義(モダニズム、といってもいいはずだ)が手に入れた重要な成果であることは言うに及ばない。ストラザーンはこの「スケール」について、2つの水準があることを指摘している。ひとつは「規模の設定(マグニフィケイション)」で、もうひとつは「領域の設定(ドメイニング)」だ。

 「規模の設定」はごく単純に、視野の大きさを変化させること、つまり僕たちが1/100の図面と1/1000の図面を行き来するような、比較・検討の際のスケールの規模の切り替えを指している。「千葉の地理情報」を分析する際に、世界地図なのか、あるいは日本地図なのか、はたまた住宅地図なのか、どの縮尺の地図で分析するかがここでの問題になる。一方「領域の設定」では、「千葉の地理情報」を「距離」の問題として分析するのか(さらにそれが時間的な距離なのか空間的な距離なのか)、あるいは歴史的・政治的な地域区分として問題とするのか、片や経済と再生産の問題からあつかうのか、が問題となる。つまり対象の分野的・領域的な差異がここでの論点となる。この2つが、僕らが事物に対してポジションをとるしかたのうちの、基本的な性質といえる。

 

 

1.

 人類学は、20世紀後半にはすでに、多元的な世界についての見方からポスト多元的と呼べるような見方へと移行している。私の説明もこの意向に倣ったものである。無数のパースペクティヴが生み出す増殖効果への気づきは、置換効果への気づきへと至り、そこではいかなるパースペクティヴも想定とは異なり、(加算することで辿り着けるような)全体的な眺望を提供することはできないことが感知される。ポスト多元主義の人類学は遠近法的であることをやめているのである。(同, pp.26-27.)

 西洋の多元主義(プルーラリズム)、あるいは遠近法的世界観(パースペクティヴィズム)への批判は、『部分的つながり』における通奏低音だといえる。多元主義/遠近法に基づく世界では、複数の視点を加算していくことである全体を獲得できるということが想定されている。ストラザーンのいう「複雑さの増大可能性」は、この想定に無理があるということを、わかりやすく示してくれる。

 「千葉の地理情報」を再び例に出そう。「千葉の地理情報」の拡大・縮小がもたらすのは、千葉を関東圏の諸地域との関係性において分析するのか、あるいは南房総という地域内を分析するのかという違いであり、各々の視点においては、各々にユニークな情報が引き出されるだろう。一方、県北一帯の平坦な地形構成と県南一帯の山岳地からなる複雑な地形面を比較するのか、交通網のネットワークから首都圏との時間的距離を導き、各地域を差異化するのか、ということでも、引き出される各地域の特性は異なっていくる。

 「千葉の地理情報」のもつ複雑さ(情報量)が、スケール操作のたびに増大し、パースペクティブを切り替えるたびに、僕らは事象に関する新たな情報を手に入れてしまう。このとき、どこまで詳細にあるいは広域に観察すれば記述は「充分」なのか、という判断は、あくまで外的に挿入するしかない問題である。それはたとえば、先立って調査の目的を限定しておくことだったり、調査期間を限定しておくこだったり、テーマをしぼっていったり、あるいはコンピュータを用いたビッグデータとして多変量の分析をおこなうかだったりするのだろう。

 これが「複雑さの増大可能性」(考慮に入れるべき「より多くの」ことが常に潜在していること)(同, p.21.)がもたらす問題だ。ポジションを変更するたび、僕らは事象に関する異なる複雑さを認識してしまう。言い方を変えれば、ポジションの変更それ自体が、事象の複雑さを発生させている、というスケールの問題である。異なるスケールを自由に跳躍できることが近代主義の大いなる成果であったということは、すでに書いた。でもこの成果のおかげで、僕らはある事象における複雑さ(情報量)が無限に存在している、という問題に直面することになる。もちろん日常生活を送っていくだけならば、これはさして問題にはならないことかもしれないが、人類学のように学問として、ある事象を科学的に実証しようとした場合、これは大きな問題となる。

 重要度の高い情報が中心にあり、そこそこ重要な情報がその近くにあり、中心から離れるほどあまり重要でない情報が現れる。従来はこのようなツリー状の構造により、無限に広がる情報を体系化し、組織化していた。情報の序列化である。このとき、中心にいけばいくほど抽象度のレベルも上がっていく。つまり中心にあるのはモデル・類型であり、周辺にあるのはより具体的な情報で、この場合、中心(モデル・類型)が特定できれば、たとえ周縁の具体的情報が無限に存在していたとしてもあまり問題にならない。中心の重要かつ抽象度の高い情報が把握できていて、そのまわりのデータがある程度そろっていれば、もうその現象に関しては「充分わかった」ということとなる。これが、「複雑さの無限発生問題」へのこれまでの対処方法である、といえよう。パラフレーズすれば、ある現象を切り取って組織化しようとしたとき、中心を伴ったツリー状の構造、あるいは初発の原理に基づいた系譜的な構造をベースにせざるを得ない、ということになる。

 しかしここには2点問題がある。まず、このような対処方法を前提としたとき、僕らは全く中心が存在しないような現象を、論理的にはとらえられないことになってしまう、という問題。この問題は人類学者が実際に直面していて、近年のメラネシアにおける研究がその一例である、とストラザーンは述べる(同, p.30.)。分析している文化や社会における価値や特徴に中心性がなく、ランダムであるとき、ぼくらはなすすべがないのだ。
 もう一つは、「同じ価値や特徴が多様な文化や社会のまったく異なるレベルで現れてくる」という問題。ある地域の文化や現象を体系化しようとしたとき、僕らは特定のパースペクティヴ(つまり特定のスケール)から導き出される情報を中心に据えることで、その地域・現象の特異性を記述することができる。例えばある地域を部族を分析し、そこで氏族集団間における財産の交換に特徴的なモデルを発見したとしよう。データをツリー状に組織化するという前提を踏まえると、異なるスケールから得られる情報はあくまでそのモデルを補足し、付随するものでなければならないはずだ。しかしこの時、個人間での財産取引においてモデルと同一のパターンやデータが反復するという事態がありうる。部族間と個人間という、異なるスケールのパースペクティヴに、同一のパターンが発生してしまう。この場合、その地域の部族に関する情報を組織化しする際に中心に来るはずだった財産交換におけるモデルが、中心として相応しくない=不釣り合いだ、ということになる。

 いずれの場合においても、このような問題に直面したときには、現象を組織化できない(ツリー状の構造が維持できない)ということになる。現象を組織化できなければ、ぼくらは「複雑さの無限発生問題」を回避できなくなる。すなわち、断片的・部分的情報でしかその現象を認知できず、「客観的な理解と定義」が不可能なように思えてしまい、しいては「とらえどころがないな」と嘆くしかなくなってしまうのだ。
 ここで直面している「限界=有限性」は、多元的な世界についての見方に基づいている。すなわち、「複数の視点を加算していくことである全体を獲得できるという想定」の限界である。

 


2.

 「部分の総和」として全体を構成するような考え=ホーリズム(全体主義)的な世界観をいかにして脱臼させるか。この問題に対してストラザーンは、「損失」というアイデアを提供する。

スケールの切り替えは情報を増殖させる効果だけでなく、情報の「損失」をも作りだす。例えば青年儀礼の描写から社会化をめぐる一般化へと切り替えをするときに、データは異なる種類のデータにとって代えられるように見えるだろう。ここで情報の損失は、その時点で探求される焦点によって、細かな部分や特定の範囲が覆い隠されるという形で現れる。これは、視野の拡縮変更によっても、取り扱う領域の変更によっても等しく生じることである。(同, p.24.)

事物を見るための新しいスケールに合わせて情報が失われ、それに応じて新しい情報が得られるならば、情報の「量」は変わっていないことは明らかである。…… 視野の大きさは単純な例を提供する。近くから観察したひとつのものが遠くから観察した多くのものと同じくらいややこしく見えるとしたら、ややこしさ自体は変わらない。(同, p.25.) 

スケールに切り替えによって、認識できる量それ自体は増えることも減ることもなく一定であり、またすべてのレベルにおいて、複雑さは同じ度合いで反復する。ストラザーンのこの大胆な記述は、本書の分析の根幹をなすアイデアである。少し具体的な例に触れてこの問題を考えてみようと思う。

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適切な例かどうかはわからないが(千葉県を酷使しすぎてしまったので)、バルセロナを例に出してみよう。バルセロナという都市は、イルデフォンソ・セルダ(Ildefonso Cerda)による極めて近代的なグリッド型の都市構造を実現した都市である。

 教科書的な、すなわち近代建築教育の基本的な説明の仕方を考えてみると、「俯瞰したときの情報(グリッド型の都市基盤)がバルセロナを特徴づけるもっとも基本的な構造である」、という説明の仕方が一例として想定できるだろう。このとき、バルセロナの記述において最も中心にくる情報はこの俯瞰時のイメージ=都市構造であり、たとえば建物の外壁の素材はあくまで補助的な情報、とされるだろう。

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しかし実際には、バルセロナにおいて反復される外壁の石材は、グリッド型の都市計画以上に、身体的な都市体験を決定的に特徴づける要素のようにも思われる。さらに、この近傍時のマテリアルがもたらしてくれる情報は、素材の視覚的・触覚的な感覚がいかようかという文字通りの情報だけではなく、この石材がどの石切場から来て、どこで加工され、そしてどのくらいの年代にいかにして加工されたかという情報を含んでいる。ここからぼくたちは、バルセロナの都市形成過程や当時の石切職人の労働環境、あるいは建築形式と石材加工技術の関係を類推することができる。

 ということで、「建物の壁面から得た情報」というのは、たしかに視覚的にはごく限られた範囲での情報ではあるものの、しかし俯瞰したときの映像に比べて情報量が「少ない」とは必ずしもいえないのだ(もちろん、逆もまた然りである)。俯瞰した状態からアイレベルへと視点を徐々に推移させていくとき、ぼくらは新しい情報を獲得するが、同時にこれまで認識できていたある情報を確実に失っている。

私たちは、不規則さの量を細部の量と考えるだろう。そうすることは、先ほど観察した現象を思い出させる。細部を見ようと倍率を上げても、彼/女が観察していることから人類学者が引き出せる情報の量は変わらない。つまり、観察行為が、形式の増殖の恒常的な背景でありつづけているのだ。(同, p.36.)

 ストラザーンの記述の通り、変化しているのはあくまで「観察者の対象へのアクセスの仕方」の方であり、対象から引き出すことのできる情報量自体は変化していないのだ。 

 


3.

 このような自体に対してストラザーンが提示するのは、フラクタル図形である。最も代表的な例は不規則に刻み込まれた海岸線のかたちであり、ここではどれだけ拡大しても同じように複雑に入り組んだ形状が現れる。「大きなスケールの地図を見ても、それぞれの入江や砂浜の岩を調べても、スケールは変化するが不規則さの量は変わらない」(同, p.35.)。ストラザーンは「フラクタル」を単に形態のスケール横断的な連続とするのではなくて、それを「類似の情報が異なるスケールで反復されること」、というより広範な仕方で捉えている。それはすなわち「反復、完全な複製ではない反復」(同, p.35.)であり、「反復される変則ないし間欠性」(同, p.36.)である。

 

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 具体的に本書で提示されるフラクタル図形はこの「カントールの塵」と呼ばれるものだ。これは「フラクタルの1種で、閉区間 [0, 1] に属する実数のうち、その三進展開のどの桁にも 1 が含まれないような表示ができるもの全体からなる集合である」(wikipediaより)、と定義されるものらしいのだけど、要は一線分を三等分し、その中央の1/3を取り除く、という過程を再帰的に繰り返すことで得られる"塵"の集合のことである。『部分的つながり』では、この有名なフラクタル図がかなり重要な概念として、あるいは形式(フォーム)として通底に置かれ、アナロジカルに参照されることとなる。さらに本書の構成自体が、序文から2つの大きなセクションへ、それぞれのセクションはさらに細かい2つのサブセクションへ…と分化していき、それらを部分として併置させる("空白を含む"ということがこのフラクタル図形の重要な点である)という、この形式そのものに沿っているものだから、著者の徹底ぶりが伺える。

 ストラザーンはカントールの塵がもつ特性を、「自己準拠的なスケーリング」と表現する。これは、ただ反復する一連の指示によって、すなわちすべての新しい指示がひとつ前のものから引き継がれることによって生み出される一連の展開であり、そのような仕方で展開するスケーリングの規則のことである。

 さて、ストラザーンが本書を人為的に「自己準拠的なスケーリング」として構造化(同, p.44.)したのは、スケーリングにともなう分析における「複雑さ(情報量)の増大」という問題に対する挑戦にほかならない。すなわち、「どんな分析や記述も、完結しきることはできない」ということをはじめから想定したうえで、むしろ「カントールの塵=自己準拠的なスケーリング」をモデルにした極めて形式的な分断のリズムを導入することで、意識的に各パラグラフの「サイズ」を固定することであり、加えて、そういった分断のリズムを読者に明確に知覚させることで、パラグラフ間の「部分的なつながり」を前景化していくこと、である。

そのためにとった戦略は、情報や議論の流れを止める、つまり「切断する(カットする)」ことだった。これから続くテクストのセクション毎の区切りは、切断であり脱落である。[切断の]両側に類似のテーマを見つけることができるが、互いに加算されることはない。筆者にとってカントールの塵は、それぞれのセクション(あるいは二つのセクションからなる一組や、本の半分)の分量を一定のサイズにするための人工的な装置だった。足し算も引き算も、複雑さを減少させることはない。サイズは文字の数ではなく、知覚の効果に他ならないのである。筆者が望んでいたのは、結果的にメラネシアについて比較している部分が理論についての部分と同じくらい「大きく」、また逆もそうであるようにすることだった。この技巧の採用は、私たちが意識していないときに実際には何をしているのかを目に見えるようにするためのものだったのである。(同, p.53.)

最後に、「カントールの塵」とともに本書を書きあげる上で大きな参照元になったというダナ・ハラウェイについて、彼女が語っているところを少し引用しよう。大変興味深い箇所である。

例えば、分析のポジションを変化させることで、失われたり隠れたりするものは何なのか。これらすべては検討に値すると強く感じられるひとつの論点、つまりスケールをめぐる問いに行き着くように思われた。アナロジーについての判断だけではなく、釣り合いについての判断もまた、データの組織化がどのようにおこなわれるかを左右する。そしてこれが「部分的な」つながりを思考可能にするサイボーグの言語をダナ・ハラウェイが導入した契機だった(部分的であることは、[全体の一部としてではなく、何かとの]つながりとしてのみ作用する。部分はそれ自体でひとつの全体であるからだ。……)。ハラウェイのセミ・マシーンは、コラージュ、モンタージュ、断片化をめぐる当時のあらゆる議論、言語に絶する多様性の再発見といったありきたりな語よりも、ずっと筆者の役にたつものだった。加えて、彼女は引き算が足し算と同じ効果をもつレイヤー化に関心をもっており、それは[パースペクティブの]移動を可能にするものだった。彼女のヴィジョンは、私が部分化可能性(パーティビリティ)と呼んでいたものにとても近かった。部分化可能性とは、人格の断片化やそれに伴う他者を通じた再帰的な自己認識のことではなく、全体の半分をペアの片割れにする社会的な論理のことである。全体の喪失を思わせるような不意の予期せぬ(それゆえ痛ましく哀れな)分断ではなく、「サイズ」の意図的な割り当てによって、筆者は実験をしてみたかったのである。(同, pp.52-53.)

 


4.

概ね本書のコンセプトは以下の2点に要約できるかと思う。

  1. フラクタル図形からヒントを得た「自己準拠的なスケーリング」のアイデアをもとに、書籍の構成それ自体を極めて形式的に構造化することで、「部分の加算による全体的な眺望の獲得」という近代のホーリズム的な世界観を脱臼しつつ、そうではない仕方での人類学の分析方法の提示すること。
  2. 「自己準拠的なスケーリング」によって分断された部分は、ハラウェイから着想をえた「サイボーグ=部分的つながり」のアイデアによって再び接続され、それらは道具=モノを媒体としながら結びつくことで、「新たなイメージの動き=再想像(リ・イマジニング)」(同, p.283.)に向けて開かれる。

本書の白眉は、このような「分析の手法」として提示されたふたつのコンセプトが、ただの手法にとどまらず、分析対象のメラネシアの人々の分化様態そのものの核心にも接続していることである。その意味で、分析の手法もまた複数化し、著者自身の手によって「彫琢=展開」(同, pp.270-271)されているのである。

 ストラザーンが本書で試みたこの方法は、現代に生きる上で非常に有益な参照元になるのではないかと感じる。というのもぼくらは、スマートフォンを手に過剰な情報の嵐のなかで過ごし、さらに何を制作しても「以前あった何か」にカテゴライズされながら、他者との関係性のがんじがらめのネットワークのなかで、日々生きているのだから。インターネット上にあふれる無限にも近しい情報をうけとめるには、人間の身体はあまりにも有限である。だからこそ、ストラザーンのように、ある種の「切断」を能動的におこない、あえて強烈な形式を事前に設けることで、議論を認識可能なフレームのなかに納め、そして議論の裂け目(ギャップ)それ自体に対しても積極的に思考を向けていくような態度は、かなり有効なのではないかと感じている。

 この問題は、いわゆる「無限後退」と呼ばれる問題とも接続する(無限後退 - Wikipedia)と思う。これは、あまりにも簡単に情報が手に入ってしまう僕らにとって、とても切実な問題だ。

 同時に、本書の分析対象であるメラネシア人の文化形態そのものからも、多くの実践的な技術を学ぶことができるだろう。それはあるオブジェクトにからまる諸々の関係性のネットワークを「切断」することで、そこから特定の布置=図を切り出す、という技術である。

世界が部分と切片に溢れていることを嘆く人々が、それらを「集め」、「結び合わせ」ようとすることには、西洋的な不安がともなっている。おそらく、この不安のいくらかは、切断は破壊的な行為であるとの前提のもと、仮想される社会的全体性がそれによって切り刻まれ、断片化されてしまうに違いないと感じられることに、由来している。身体が手足を失いつつあるかのように感じるのだ。これに対し、これらのメラネシアの例に見たように、切断が諸関係を現れさせ、反応を引き出し、また、贈り物を手に入れるという意図をもって行われるとき、要するに切断が創造的な行為であるような前提があるところでは、切断は、人格の内的な能力と、関係の外的な能力を顕わにする。そして社会性は、この能力あるいは力において、人格と関係を背景として図のごとく「動く」ものとして立ち現れるのである。(同, p.271-272.)

 切断によって創造をおこなう、という態度は、本書の分析対象であるメラネシアの人々にとっては当たり前の、ごくスタンダードな思考であるという。「つながること」をよしとし、現に過剰に他者とのネットワークに接続されてしまっているぼくらにとってみれば、メラネシア人が蓄積してきた「切断のスキル」というのは、大変多くのヒントが隠されている貯蔵庫ともいえる存在であろう。

メラネシアの社会性やアマゾンの多自然主義は、決して人類の「始原」に属しているのではない。それらは、ほぼ同時代の「こうでもありうる」世界であるからこそ、私たちのこれからを考える確かな足場を提供しているのだといえよう。(同, p.344.)

と、このように訳者あとがきで触れられているとおり、本書のような人類学の書籍から読み取れる内容は、特に専門外の人間からすれば、ごくごく遠い世界の問題と捉えてしまいがちである。たしかにメラネシアの人々は、いわゆる「近代」というものが目指したものとは全く別の仕方での社会性をもち、それを現に稼働させながら生きているが、しかしそれはあくまで、”同時代の「こうでもありうる」世界”なのだ。そしてだからこそストラザーンは、分析に際し西洋近代的なホーリズム=全体主義に陥らないように細心の注意を払い、むしろメラネシア人の思考に寄り添ったかたちでの分析手法を開発したに違いない。

 ストラザーンは、彼/彼女らの仕方で、彼/彼女らの生を切り出したのだ。そしてそこで切り出されたものは、われわれ自身に生に向けて投げかけられているのである。

 

 

*1:「スケール」という用語は建築分野で頻繁に用いられるが、その定義は曖昧で、よくいえば多義的である。たとえば、「スケール」を単に「大きさ(サイズ)」という意味で用いる場合も多い。そんな中で、フランスの建築理論家であるフィリップ・ブドンは著書『建築空間ー尺度について』において、建築における「スケール」という概念の説得力ある定義をおこなっている。ブドンによれば、建築においては、プロポーションが「同一の空間の中でのある部分と他の部分とが有する比」を意味し、スケールは「一つの空間の一部とそれとは異なる別の空間の一部との比」を意味する。たとえばマッチ箱の底辺と高さを比較しているとき、それはプロポーションに着目した分析である(マッチ箱という閉じた体系の中の比)。一方でマッチ箱とタバコの大きさを比較する行為はスケールに着目した分析である。マッチ箱の寸法を知るためには、マッチ箱以外の、しかもしかも既に寸法を知っている別の要素との比較をおこなう必要がある、と。ゆえにスケールの分析を徹底すると、自身の身体それのみが寸法比較の手がかりとして残るという。このデカルト的な還元に関しては批判が可能だけれど、こうしたブドンのスケールの説明は概ね正確であると思う。