図と地の鮮やかな反転 / M.ストラザーン『部分的つながり』②

 

0. 

 前回*1は、ストラザーンの「スケール」という用語に対するユニークな認識を軸に、どちらかというと本書の分析手法について考察をおこなっていった。なので今回は、本書の分析対象、メラネシアの人々そのものについて触れていきたいと思う。

 とりわけ後半の、ニューアイルランド島のウセン・バロクの人々の儀礼を巡るテクストのドライブ感は圧巻なので、ここではその内容について集中的に取り組んでいこう。

 


1.

 まずはバロクの人々の葬送儀礼に関する本書の記述を引用しよう。

 バロクの人々は、男たちの小屋を含む石垣で囲われた空間で儀礼を行う(Wagner 1986b, 1987)。この空間の全体は、水平に置かれた樹木のイメージに沿って配置されている。入り口では、樹木の先端部になぞらえられる二股の木の枝が敷居をなしている。男たちの小屋の裏側には祖先たちの埋葬場所があり、この場所は氏族の根、あるいは氏族内で「枝分かれ」し地域的にまとまった母系リネージの根になぞらえられる。墓地に埋葬された遺体が完全に腐敗し切ったとき、他集団にも開かれた宴会が催され、男たちの小屋に諸々の規制を課していた期間が終わる。何頭ものブタが入り口に向けて展示され、これによって、[宴会を主宰する]氏族が数多くの成長点をもつことが示される。氏族の成長点は、[樹木][=氏族の類比物(アナログ)]の上方の枝の先端に位置しており、そこには、(彼らによれば)[招かれた]他集団の人々にごちそうされる果実[=ブタの類比物(アナログ)]が実っている。(ストラザーン, マリリン: 部分的つながり, 大杉高志+浜田明範+田口陽子+丹波充+里見龍樹訳, 水声社, 2015, pp.267-268.)

 空間的なイメージがやや難解だとおもわれるが、ストラザーンが参照しているロイ・ワグナーの1987年の論文「Figure-ground reversal among the Barok」の以下の図がわかりやすい。

f:id:o_tkhr:20201129155917j:plain

Fig.1  儀礼空間の構成。樹木をイメージさせる平面的な配置。 

 儀礼がおこなわれる石垣で囲われた空間は、樹木をイメージさせるような仕方で、複数のオブジェクトが巧みに平面方向に配置されている (Fig.1)。斜めに伸びる敷居は枝先の隠喩であり、入り口に並ぶ人々は氏族の繁栄を樹木の枝分かれになぞらえて表現されている。中央に貢がれるブタは樹木に実る果実であり、そして奥の小屋は祖先の墓=家であり、樹木の根になぞらえて配置されたこの墓地に、ある期間に亡くなった仲間たちがまとめて埋葬される。氏族の構成員は、敷居、石垣、ブタら、祖先らとともに、各々が異なる役割を持った構成要素となり一体化することで、まさに「樹木になる」のだ。このような大変知的な配置計画と、そしてそれがもたらす身体感覚によって、儀礼が担うであろう魔術的な機能は達成されるのだ。

ところが、一定期間に起こった一群の死を完結させる最後の宴会においては、この水平構造の全体が、宙に向かって垂直に立ち上げられる。この構造は、そのように[水平から垂直へと]軸を移すことで逆転されるのである。 この移行は石垣の外で起こる。[この宴会の際には、]森から切り出された大木が上下逆さまに立てられる。その根は中空に広がり、幹は地面によって「切られ」、その下には見えない枝が広がっているかのようである。あたかもこれらの枝からぶら下がっているかのように。[宴会を主催する]リネージに属する年頃の女性たちが、逆さにされた果実のように地面に座る。そうすることで彼女らは、他氏族のリネージに婚入し、それらのリネージに養育をもたらすという、[母系社会で]通常は男性に割り当てられた役割を引き受けるのである。他方で、それまでの氏族の母なる始祖と同一視されていた主根の上では、宴会のために殺されたブタたちの上に、新たにビッグ・マンになろうとする若い男性が立つ。(同, pp.267-268.)

f:id:o_tkhr:20201129155944j:plain

Fig.2  宴会でのイメージの二重性

 儀礼の終盤、クライマックスでは、実際に切り出した樹木が逆さに立てられる。水平方向から垂直方向への、大胆なイメージの逆転である(Fig.2)。このような逆転された樹木は、森に生える垂直の樹木という観念、そして石垣で囲われた空間が象徴する「水平の樹木」という観念から、順繰りに派生し成長したイメージである。であるからこそ、前段階の「水平の樹木」にて祖先の墓=家が配置されていた「主根の位置」に、今度は氏族の新たなリーダーが降臨することで、氏族の全員が彼を母なる始祖と同一視することになる、と。このように死から生へ、ダイナミックにイメージを展開したところで、儀礼は幕を閉じる。

 バロクの人々の葬送儀礼のもつ形式は、まずプロセスそのものの接続方法が巧みであり(樹木→平面的な樹木→倒立した樹木)、さらには各プロセスでのオブジェクトの配置と、それらが喚起するイメージの管理が的確で、個人的には極めて”建築的な”所業であると感じた。そして、このようなバロクの人々の「図と地の反転」の儀礼に関するストラザーンの以下の記述もまた、大変明晰である。個人的には頭を殴られたような衝撃があった。

図と地の反転が、地を潜在的な図=形象(フィギュア)として掲示する限りにおいて、この反転の動きは、地から「切り取られた」図が、地につけ加えられた図ではないということを含意している。だがもちろんのこと、それらの図は断片であるわけではなく、そこに部分と全体の関係があるわけでもない。むしろ、図と地は二つの次元として働く。それらは[自己準拠的に]自らを自らのスケールとするのだ。言うなれば、二つのパースペクティブではなく、地はまた別の図であり、図はまた別の地であるというように、二度向けられた一つのパースペクティブである。一方は他方との関係において不変なものとして振る舞うので、これらの次元は決して全体化する仕方で構成されることがない。量や生命が、一方の次元で増大することなく他方の次元で増大しうるという知覚は、このことに由来している。関係の彫琢=展開において、増大するのは彫琢=展開であり、関係ではない。(同, pp.270-271)

 このストラザーンの指摘を、少々噛み砕きながら解釈していってみよう。まず本儀式のクライマックスでは、逆さの樹木を立てかけることで、

  1. 文字通り地中の木の根を露出することで、樹木が常に根(=祖先の類比物)によって支えられていたことを明示する。
  2. 水平方向の構造によって提示された図=形象(Fig.1)から垂直へと軸を移すことで(Fig.2)、各構成要素(統率者・女性・男性・ブタ・祖先)の配置を変更し、前者に取って代わる新たな図=形象(リーダーを讃える形象)を切り出している。

という、リテラルな意味作用と、束ねられた複数のオブジェクトの位置関係が織りなす意味作用の二重化がまず起こっているいる。このとき、前者では「通常の樹木」と「逆さの樹木」という文字通りのフィジカルな逆転が起こっているわけだが、後者の「オブジェクトの位置関係が織りなす意味作用」という層においてもまた、図と地のダイナミックな反転が起こっている。文字通りの(フィジカルな)水準と隠喩的(メタフィジカル)な水準、その両方で逆転が発生し、逆転そのものが二重化されていることに留意しよう。複雑な意味作用の変遷がフィジカルのダイナミズムと連動することで空間の緊張感を一気に高め、儀礼のピークを演出しつつ、クライマックスを全構成員が一丸となってパフォーマンスしているのである。

 ここでは石垣で囲われた空間=水平の樹木(Fig.1)における各構成要素の配置を解きほぐし、同一のオブジェクトを別の諸関係へと配置し直すための人工的な装置として「逆さの樹木」が機能している(Fig.2)。「水平の樹木」(Fig.1)と「逆さの樹木」(Fig.2)は、同一の構成要素からなるという意味で「うさぎあひる図」(Fig.3)のような図と地の反転関係にあるといえる。両者の関係をストラザーンは「2通りに眺められるひとつのパースペクティブ」(=「言うなれば、二つのパースペクティブではなく、地はまた別の図であり、図はまた別の地であるというように、二度向けられた一つのパースペクティブである」, p.270)と表現するのだ。

f:id:o_tkhr:20201129160058j:plain

Fig.3  うさぎあひる図

 モノの配置が別様に推移することで、各々のモノが担う役割は変容し、複数化している。バロクの人々は、うんざりするくらい多種類のオブジェクトに囲まれるぼくらとは対象的に、現にそこにある、限られたモノしか用いることができない。がしかし、「彼らは現にあるものを用いて、新たな情報を生み出し、他者に刻み込みたいと願う差異の新たな貯蔵庫を作り出す」(p.272)。

 さらに、ここで増大するのは「関係」そのものではなく(差異が加算されているわけではなく)、彫琢=展開(Elaboration)であり、すなわち諸オブジェクトのもつ布置の読み替え・書き換えの”展開”の連続なのである、とストラザーンはいう。

 

 こうした魅惑的な図と地の反転を、集団的儀礼のなかで意識的に用いる場合、モノや道具の形態が誘発するイメージの操作に関する相当なスキルが要求される、と、これは想像にたやすい。では、一体どのような文化的背景がそれを可能にするのだろうか。

 


2.

 儀礼における「図と地の反転」の基底にある条件。そのひとつは、各々のオブジェクトが「同じ素材」からつくられているという認識である。

 まず、ワントアト盆地の住人は儀礼時、樹皮布と竹からできた20m近い巨大な拡張物(エクステンション)を身につけることで、相対的に自らの身体を「樹木の根」に見立て(Fig.4)、また同様に、木と竹を用いて上下に揺れ動くように作られた盾を担ぐことで、自らを「精霊」にも作り変える (同, pp.173-175)。彼らの神話によると人間はそもそも、けたたましい音を立てて割れる竹から生まれた存在である (同, pp.176-177)。また、カヌーは一本の樹木を切り出すことで造られ、旅立つ男たちを運ぶが(同, pp.178-180)、彼らの笛もまた、樹木から切り出されてつくられるものである。

f:id:o_tkhr:20201129160133j:plain

Fig.4  ワントアトの「拡張物」

 うなり木は、まるでワントアトの「拡張物」のミニチュアのような小さな楽器であり、精霊の住処となる顔の文様が描かれる。さらに人間はぱっくり割れた竹から生まれたのであり、つまり音を立てる「樹木」であるから、笛の類比物として結び付けられる。カヌーもまた、その形態や、岸辺で船の到着を告げる法螺貝、シューシューと水面を移動する音と結び付けられ、あたかも気鳴楽器の一種のように、側面に割れ目太鼓と同様のトーテム模様を刻みつけられる (同, pp.184-187)。

メラネシア人は、伝統に隠喩的な切れ目を入れるのではなく、文字通り肌の表面を切る。また彼らは、個人を隠喩的に転倒させ、文化的ルーツを求めて旅をするように仕向ける代わりに、文字通り木の根を引き抜いて逆立ちさせ、樹冠が常に根によって支えられていたことを示す。 このようなリテラリズムを誤解してはいけない。切断され、動かされているのは、イメージそれ自体なのだ。男たちと樹木と精霊と笛と女たちとカヌーが、すべて互いの類比物(アナログ)とみなされる場合、そしてワントアトのように、樹木が切り倒され広場の中央にもって来られる場合、人々は樹木を、ひとりの男のイメージとして森から切り出している。(同, pp.266-267.)

 盾や人間やカヌーや笛は、樹木という「同じ素材」からつくられている、がゆえに、これらはすべて類比物(アナログ)なのだ。このとき、ある比喩=形象は、先行する比喩=形象から引き出されるかのように提示される。モノや道具は、互いにイメージを引き出し/引き出されるという関係にあり、「先取りされた喚起」がコロコロと展開していくような、アナロジーの運動のなかで動く。

 「あらゆるモノが類比物」であるがゆえに、メラネシア人にとってモノの間の類似性や類同性は自明のもの、いわば社会生活における通奏低音である。であるがゆえに、彼/彼女らにとって「創造する」ということは、絡み合った無限に続きうるアナロジーのネットワークをむしろ適度にカットすること、に他ならない。特定のイメージを喚起するような形態(フィギュア=図)は、そうした「切断」のスキルによって仮固定され、提示されるのだ。 

 

 それと同時に、道具やモノ(上述した笛やカヌーに加え、袋、仮面、アクセサリーなど)やある特定の儀礼などは、部族間で微妙に意味が異なるという。つまり、モノや道具の使われ方には一貫した基軸がなく、それらは常に様々な使用可能性のなかで揺れている。モノは異なる社会集団間で、例えば婚姻関係や貿易を通して共有されるが、そこでは互いに異なる役割をもったモノ=道具としてあらわれる。

 その「使用可能生」のズレによって、アナロジーは拡張されていく。「笛」は人々の口の拡張であり、鳥という形態をとった精霊であり、旅の終焉(カヌーの到着)を予期させるサインでもありうる。一方異なる部族間において「笛」は、ある部族では娯楽のために用いられる道具であり、ある部族では少年たちを威圧する道具として用いられる。「笛は一般的な形態として存在することなどなく、無数の特定の形態としてのみ存在しているのである。」(同, p.192)。ある道具=モノが「旅」をするとき、おのずとそのモノには、送り手と受け手双方のアイデンティティを帯びることになるのだ。

(送り手と受け手のアイデンティティを帯びることで)その内部に移動が書きこまれた財貨、竹竿に沿って上下に動く精霊の顔は、メラネシアのサイボーグ、すなわち、異なる形象あるいは構成要素からなる一回路である。(……) メラネシアのサイボーグと、ハラウェイにおける半人間/半機械との相違は、メラネシアのサイボーグの構成要素が、同じ素材から概念的に「切り取られて」いるという点にある。紐に連ねられた貝殻と母系リネージのあいだ、男と竹竿のあいだ、ヤムイモと精霊のあいだに差異はない。両者が関係の知覚を等しく喚起する限りにおいて、一方は他方「である」。異なる構成要素ないし形象は、だからいずれも、互いにつなぎ留められた複数の人格ないし諸関係の部分である。(……)「同じ素材」であることは、その効果として、あらゆる動きと活動に共通の背景があるという知覚を生み出す。切断という創造的な行為のさらなる重要性ここに由来する。情報の亀裂は、ある人格を別の人格の拡張された部分として可視化し、母親の兄弟に自分たちが姉妹の息子と部分的にだがつながっていると感じさせ、また、個人のアイデンティティの複数の位置を差異化するのである。(同, pp.280-281)

儀礼において、「水平-垂直」のイメージの逆転を可能にするのは、イメージを構成する要素(統率者・女性・男性・ブタ・祖先ら)が”異なる仕方で再配置”されるからであった。それが可能となるのは、各構成要素(統率者・女性・男性・ブタ・祖先ら)がすべて「同じ素材」から切り出されたもの、すなわち「互いにつなぎ留められた複数の人格ないし諸関係の部分」であるからであって、そうしたアニミズム的な世界観が背景として横たわっているのである。

 上記引用部の最後の記述もまた、大変に重要であると思われる。メラネシアにおいて、人間と非-人間はすべからず「同じ素材」からできており、それらは互いに互いを自らの部分とみなし、自らのうちに他者を包摂する一方で、おのおのはそれ自体としては、依然として存在する。道具やモノは、すべてのモノとつながりつつも自律するという、ズレを含んでいて、準-自律的な仕方で存在するのだ。そして、そうしたネットワークにおける「ヒビ=亀裂」こそが、「個人のアイデンティティの複数の位置を差異化する」要因なのである。

 メラネシアのようなアニミズム的な世界観というのはいってしまえば、「すべてがアナロジカルに接続してしまう世界」である(情報技術革命以降のわれわれの世界もまたそうであることを念頭においておこう)。「切断」はそういう状況にあって、繋がりすぎたネットワークを適度に調整するための、さらには個人のアイデンティティを確保するための、まさに創造的な行為なのである。

 


3. 

 図/地の反転を可能にするもうひとつの背景は、ある特定の方向をむいた社会性である。

一見したところ、バロクの宴会における互いに反転した二つの樹木は、枝と根が釣り合いを保って互いを反復複製している点で、相互に同形的(アイソモーフィック)である。(……)私たちの目には、バロクは基底=根となる隠喩(ルート・メタファー)を的確に選び出したように見える。彼らの選択の背景[図/地のさらに背後にある地]はすでにそこにある。その選択は、氏族の生殖力を新参のビッグ・マンや祖先たちからの庇護とあわせて讃えるという必要性の内にある。この基盤にある社会性(グラウンディング・ソーシャリティ)こそが、パフォーマンスが全体として実現していることに他ならず、それは根を逆さに立てたり枝を切ったりすることで、この男やあの少女たちを現れさせる個別的な行為よりも包括的である。(同, p.271.)

 たとえばバロクの人々の儀礼における「図と地の反転」をひとつのモデルとして捉えようとしたときに、このような「基盤にある社会性=図/地のさらに背後にある地」が存在することを忘れてはならない。そしてこのような共通認識は、いくら図と地が反転しようとも変化しない。増大するのはあくまでも「行為」の方であって、それによって基盤にある社会性は再生産され、氏族の堅い結束がもたらされるのである。

カントールの塵が筆者の想像力をとらえたのは、それが、それ自体としては増大しない背景に対する知覚を増進させることで、出来事のあいだに空白をつくりだす一連の指示を与えてくれるからだった。(……) 空白は私たちに、拡張することのできる場、わたしたちを補綴する装置のための空間をもたらすようにみえる。(同, pp.274-275.)

 儀礼に登場するすべてのオブジェクトは、「同じ素材」からなる、互いに互いを包摂するオブジェクトであった。それらは、「樹木」を様々な仕方で切り出して(切断して)造られた存在であった。ゆえに、どれだけ大量の新たなイメージがそこから生産されようとも、そのイメージはそれらを支えている足場やその素材が切り出されてくる森を拡張するものではなかった。

 儀礼そのものもまた、基盤となる社会性の上で、様々な形態をもって取りおこなわれるが、それは社会性そのものをどうにかするものではなかった。メラネシアの基盤にある社会性(ルート・メタファー)とは、いわば共同体全体の「願い」であり、儀礼はそうした基盤の上でのオブジェクトたちのダンスであって、それはメラネシアの人々を励まし、彼らに活力と生きる意味を与え、氏族を統制する秩序を整えるための行為なのである。

 

f:id:o_tkhr:20201129155406p:plain

 

 カントールの塵のもつ、「1/3を取り除くという過程を再帰的に繰り返す」という工程は、たしかにそうした状況と緊密に結びつく幾何学的なアイデアである。メラネシアのような世界では、空白をつくること=切断すること、がすなわち創造的な、ものをつくるという行為なのだ。そしてストラザーンはまさしくそういう仕方で、本書を書き上げたのである。

 「自己準拠的なスケーリング=完全な複製ではない反復」が、変奏しながら延々と展開していく。まさにメラネシアは、そういった世界ではないか。そしてそれがもたらすのは、すべてのオブジェクトがなんらかの仕方で、部分的に、アナロジカルにつながりあう「過剰なネットワーク」の世界である。そこでは、ネットワークの束をある形態・行為で切断し、特定の図=形象を取り出すスキルだったり、複数のオブジェクトの布置をコントロールすることで「オブジェクトの位置関係の束が織りなすイメージ」を発生させる技術だったりが要請され、かくして極めて単純な事物が、多様で芳醇な意味と使用可能性に開かれることになるのだ。

 ここまできてようやく、どうしようもなく近代的な身体をもったぼくらは、冒頭の儀礼をなんとか、理解することができるのである。